行き来を説く経典

『阿差末菩薩経』より
「尊者舎利子よ。『来る』というそれは、集める言葉である。
尊者舎利子よ。『行く』というそれは、斥ける言葉である。
それに集める言葉が無く、斥ける言葉が無いところに、
来ることも無く、行くことも無い。
『来る』と『行く」が無いことが、聖者方の『行く』である。」

「種子が有れば、芽はかくなる如くであり、種子であるものは、芽そのものではない。それより他ではなく、それでもない。
そのように恒常ではなく、断滅ではなく、法性である。」

「印章より印章の凸部は(紙に)映るけれども、その印章が(紙上に)移行したと認められるのではない。そこにそれは無く、他にではない。
そのように有為は、恒常が無く、断滅が無い。」

「鏡面や穀物油の入った器を、化粧した女性が覗き込んだならば、
その幼子は(その美しさに対して)欲望を起こし、
欲望を満足させる為にも、慌ただしく走り回る。
(女性の)顔はそこに移るのではなく、映った面影には、全く(本物の女性の)顔は見つからない。
(にもかかわらず)それらの蒙昧な者達が欲望を生じさせられるように、一切法(現象)はその如くであると知りたまえ。」

『三昧王経』より
「その時、悪業無く十力を具えた、その勝者(仏陀)はこの最高の禅定を説かれる。
有(輪廻)の衆生は夢のようであり、ここに誰も生まれず、死ぬことは無い。
有情である人や、命者も見出さず、
これらの法(現象)は、水面の泡や浮き木に似ている。
幻のようで、虚空の稲妻に似ており、
水面の月に似て、逃げ水の如くである。

人々がこの世間でも死んで、他の世間へ移行して行くことは無いけれども、
為された業はいつ時も無駄にはならない。
輪廻であろうとも白黒(善悪の業)の果は熟す。
恒常としてではなく、断滅するとならず、
業を積んだことは無く、留まることも無い。
それも、為して(結果を)経験しないのではない。
他者が為した(業の結果)を(自らが)感受することも無い。

移行することは無く、後に再び来ることは無い。
一切は有るのではなく、無いのでもない。
ここで見解の在処に入り込むことは、清浄ではない。

有情の行いは優れて寂静であり、入り込むものは無い。
三有(界)は夢に似て、精髄が無い。
速やかに壊し、無常で幻の如くである。
来ることは無く、ここより行くことも無い。
流れは常に空虚で、無相である。

如来の享受される境である、勝者の功徳とは、
無生、寂静、無相の居処である。
力と陀羅尼等と十力の力。これは仏陀が迦楼羅の如くである最高の性質である。
最勝の善法である功徳を積まれ、功徳と智慧と陀羅尼と最勝力と、
神変と最勝の変化と、最勝の五神通を得られた聖者の仕方である。」

『宝積経』より
「『生者達よ。何処へ行くのか?何処から来たのか?』
彼らが言った。『尊者須菩提よ。何処へも行くことは無く、何処からも来ることは無い故に、世尊が法を示されました。』」


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