根(感覚器官)を考察する

龍樹著『根本中論』第三章は、「根(感覚器官)を考察する」と名付けられているが、
解説に当たる『ブッダパーリタ』(仏護著)では「處を考察する」と書かれている。

「處」とは、十二處。
六根六境をいい、
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身体・意の六の感覚器官。
「精進祭り。六根清浄。」とお祭りの時に掛け声で聞こえる言葉だ。
六境とは、上記の六の感覚器官の六の対象で、
形色・音声・臭い・味・触感・法(現象:存在)の六である。

では何故ここで、お題として出てきたのかというと、
第一章「縁を考察する」で、総体的に、多くのものに当てはまる性質(生等)の実体を否定して、無我を要約して示し、
第二章「行き来を考察する」で、これまた実体の理由になっている、生きものの主要な行動である「行き来」の実体を否定した。

更に第三章「根(感覚器官)を考察する」では、
経典に出てくる「視る者」等と名付けられる拠所になる眼根(眼の感覚器官)等は、実在するのではないと説く。

第三章は、「法無我を説く」の分類に入っている。

論書全般の流れとして、「人無我」の前に「法無我」を説いている。
これは『入中論』(月称著)でも同じである。

「『わたし』や『あなた』という人は実在するのではないよ」という前に、
「わたし」や「あなた」と名付ける拠所になっている身体の部分の実在を否定して、

その後で、
自分(わたし)自身や他者が実在するなら、探せば見付かる筈である。
自分に関していえば、自分が感じられる拠所をつぶさに探しても、自分そのものを見つけることはできない。

という段階を踏んで、
「わたしは、自分が感じているように本当に有る(実在する)のではないのだ。」
と気付く構成になっている。

一つ注意点は、見つからないからといって、「わたし」が全く無いのではなく、「わたし」と感じる拠所になっている感覚に依拠して、
概念的に名付けられたものとしての「わたし」はある、
ということである。

幻影の城を崩す為に、
下からホログラムを投影している映写機を壊すような作戦であるが、
「わたし」と名付けられる基になっているものごとの実在を、一つずつ丁寧に否定していく。
それぞれのパーツに力が無くなれば、パーツの集合にも力が無くなる道理である。

第三章でややこしいところは、
感覚器官を表す言葉が動詞で記されている部分である。

チベット語の動詞にも三時制があり、
普通に                              「~するだろう」未来形
「~する」現在形
「~した」過去形
を表すこともあるのだが、

普通でないのは、
未来形が「~されるもの」といって、動詞の表す行為の対象
現在形が「~するもの」といって、行為するもの(ツール)
を表す意味があることである。
(他の言語でもそうなのかどうかは分からない)

行為するものも、
行為する者(行為者)と行為するもの(ツール)で、二つに分かれる。

例えば、木こりが斧で木を切る場合、
木こり:切る者。行為者。
腕と斧:切るもの。ツール。
木:切られる対象。行為対象。
切る:切る行為。
という分類をする。

更に、切る側の行為と、切られる側の行為等、ややこしくなってくるが、ここでは割愛する。

『根本中論』は韻文として著されているので、語数が決まっていることから、感覚器官を動詞で表したのかもしれないが、
もう一つ、考えられることもあるのではないかと気が付いた。

対論者の毘婆沙部は、「(知覚だけでなく)眼の感覚器官も形色を視る」という。

『それがどうした』と思われるかもしれないが、
仏教哲学の他の学派では、眼の感覚器官は形色を視ないのである。

経量部以上の学派は、眼識(眼の感覚器官に直接つながっている知覚)が形色を視るが、
眼の感覚器官は視ない。認識能力が無い故である。
ならば何をしているのかといえば、眼の感覚器官を通して形色の様相を知覚に送る。
眼識はその様相をうけとってそれを映し出し、知覚することになる。

ここで、意見の違う二人が問答することになる。
一方は「眼が視る。」と言っている。
一方は「眼は視ない。眼は視るもの(ツール)だ。」と言っている。

一方が眼について語る時、「視るもの(ツール)は云々・・・」と言い始めれば、
もう一方は「その主語自体があり得ない。」と返答する可能性がある。

最初から主張が違う(実在を承認する・承認しない)ことは分かっている。
問答される側(毘婆沙部)は最初から構えているから、
『相手はこう思って、この言葉を使っているのだろう』
等と思いやりを示すことはないだろう。

実際、問答する時に多々あることであるが、
言葉に対する認識の違いから文言についての解釈が全く違ってくる。

それが分かっているから、チャレンジャーは最初からどうとも取れるような言葉を使うことも多い。
一種の引っ掛けである。

この場合は「視る」(現在形)等の動詞そのものである。

「視る」であれば、毘婆沙部の論者も『眼かな』と思うし、
中観派にとっても、動詞の現在形を使っているので「眼=視るもの(ツール)」としての意味を表すことができる。

どちらにせよ眼根(眼の感覚器官)を表すと受け取れる。

裏読みしすぎかもしれないが、
古代インドでも、相手の思惑を裏読みする論争の戦術があったのかと、
感心している筆者である。

※『根本中論』『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』第三章・第四章、本日公開!

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