我と法を考察する

我と法を考察する

直子 デチェン

龍樹著『根本中論』第十八章は、「我(が)と法(ほう)を考察する」である。

論書全体の流れとしては、「無我の真如へ入る方法」と項目付けされる章で、「真如とは何か?真如を観入するとはどのようなものであるか?」
という質問に答える章である。

それに対して、『根本中論』の解説『正理の海』で先ず説かれることは、

「内外の事物が、(実在するならば、認識されなければならないにもかかわらず)認識されていないことによって、『我(わたし)』や『我所(わたしのもの)』であると捉える思い込みが、全ての様相において尽きたことが、真如である。」

「真如に入る詳細な方法は、『入中論』より、
『諸々の煩悩や禍は残らず、有身見(一瞬毎に壊れるー変化する自分の心身に依拠して名付けられた私を、実在すると思い込む見解)より起こったと知恵によって看破し、〈我〉がこの(見解の)対象であると了解して、瑜伽行者は〈我〉を否定する(滅す)。(第6章120偈)』
等によって説かれたように知りたまえ。
ここでは根本テキストに記されている一部分を説こう。」

と説かれている。

真如については、「わたし」と「わたしのもの」に対する実体視が無くなったことが真如であると説かれているが、
これは中観帰謬論証派というよりは、自立論証派の説明に近いものである。
帰謬論証派の見解に沿って言えば、それらの見解が一切の様相において尽きた、その尽きた相が真如といえるものではないかと思う。

本章は、真如と、真如へ入る方法を説かれた内容であるが、
章名でわかる通り、真如=無我の否定対象を考察することで、
その否定対象が欠如する無我とは何かを考察する。

「我」はプトガラ(「人」と漢訳される)に対応し、
「法」はプトガラ以外の存在(心身等)に対応し、
それらが実在するように思われたとしても、考察を重ねることで実在していないと帰結する。

他章の多くは、実在の欠如の証明が主な著述内容であるが、
本章では、実際に無我を修行する者がどのような考察を経て実践するかという部分も説かれる。

『根本中論』中で最も知られた偈の一つは、本章にある。

「業と煩悩が尽きることによって解脱する。業と煩悩は妄分別から。
それらは戯論から。戯論は、空性によって滅すとなる。(第5偈)」

であるが、この中の「戯論(けろん)」という言葉が曲者で、
チベット語の本来の意味は「発されたもの(spros pa)」。
意識が二元の現れを持つ時に発された、二元の現れを示すこともあれば、
二元の現れが更に粗くなり、概念作用となった対象を示すこともあるし、
それが更に粗くなって、意味の無い戯言に「戯論」という言葉が当てられる場合もある。

「戯論」とは漢訳で当てられた言葉なので、本来の意味を知っておくと、テキストを読むときの助けになると思う。

他にも、真如がどのように感得されるものなのか?
真如がどのような性質を持つか?

最終偈では、大乗修行者と声聞・独覚という三種の修行者が、無我をそれぞれの修行道に合わせて実践していくことが、暗示されている。

非実在の理由や背理を示すことが多い他章と比べて、
より実践の次第に沿った内容であると思う。


DECHEN
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直子 デチェン
1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒマラヤの麓、ダラムサラで暮らす。 100円投げ銭サポート募集中!インド自炊で一食分・・・二食分?(^人^)ゞ