「好きだからやる」の限界と、その先に進むための手がかりについて

 面白いと思うものをたくさん経験して死にたいと思う。
 自分が好きなものを、できるだけたくさん見たり、聞いたり、触れたりして、楽しい人生だったと思いながら死にたい。
 とにかく、「好きなもの」、「面白いもの」を目一杯やっていきたい。

 けれども、こうした「好きだからやる」には限界がある。
 一瞬の楽しい感情だけでは耐えられなくなることがある。

 なぜなら、「好きだから」の背後には、圧倒的な虚しさが横たわっているから。

 「好きなこと」をし続けていて、突然「こんなことに何の意味があるのか」と虚しい気持ちに襲われない人なんているんだろうか。
 夢中になることで自分を麻痺させることはできるけど、背後からは「そんなことをして、それがいったい何になるっていうんだ」と囁く声がする。

 なにが言いたいのかというと、モデリングをしていると「一体そんなことをして何になるっていうんだ。金にもならないし、やってて楽しいことなら他にもいっぱいあるだろうに」という気持ちに悩まされるのだ。
 さらに今Vケの2次入稿が間近に迫っている事実からの逃避のためにこの文章を書いているのに、こんなもの書いて何になるんだという気持ちに襲われている。もうだめだ。助けてくれ。

 ゴチャゴチャ書いたが、つまり「うれしい!」「たのしい!」「大好き!」という感情は基本的には一瞬のもので、ずっとその感情に頼り続けることはできないということなのだと思う。
 ただの「好き」には強度がない。重さがない。
 「好き」だけでは、その「好き」なものをずっと「好き」でいたり、その「好き」なものに向けて努力をし続けることはできない。


 もし、好きな気持ちだけで何かに長い期間打ち込めている人がいたら、その人は、きっと「好きだから」だけの状態から一歩先へ進んでいるのだ。

 じゃあ、どうしたら一歩先に進めるんだろうか。

 それは、「好きなこと」を、ただ好きなだけではない、「しなければならないこと」にしていくことなんだと思う。

 とはいえ、仕事や趣味を、本当の意味で「しなければならないこと」にするのは、めちゃくちゃ難しいと思う。
絶対に「しなければならないこと」なんてまず無いから。
世界には楽しいことがいくらでもあるし、お金を稼ぐ手段だっていろいろある。

 本質的には、一新教を信じていない人間に「しなければならないこと」など何一つとしてないはずなのだ。
 何をしてもいい。究極的には、神がいなければ、人を殺したって構わないはずだ。ただ人を殺さないのは、殺したときのメリットとデメリットを比べて、デメリットの方が大きいと(意識的にせよ無意識的にせよ)判断しているに過ぎない。
 絶対的なるものとの繋がりがない人間は、本来は何をしてもいいのだ。
神を信じていなければ何をしても許されるというのは『カラマーゾフの兄弟』の有名な大審問官のシーンの重要なテーマだし、信仰がなくなることによって世界から「意味」が消失することの把握は実存主義哲学の出発点の一つでもある。
 マックス・ヴェーバーなんかはわかりやすく、世界に「意味」がないこと、「しなければならないこと」なんてないことに耐えて仕事をすることができない軟弱者はさっさとキリスト教へ帰れと言っている。

 こんにち、究極かつもっとも崇高なさまざまな価値は、ことごとく公の舞台から引きしりぞき(…)、その姿を没し去っている。これは、われわれの時代、この合理化と主知化、なかんずくかの魔法からの世界開放を特徴とする時代の宿命である。(…)
 このような時代の宿命に男らしく堪えることのできないものに向かっては、つぎのようにいわれねばならない、かれはむしろだまって(…)、ただ素直に、またかざり気なく、むかしからの教会の広くまた温かいひろげられた腕のなかへ戻るがいい、と。(…)これはかれとして避けえないことなのである。われわれはかれがそうしたからといってかれをとがめることはしないであろう。
マックス・ウェーバー『職業としての学問』

 神がいなければ、「しなければならないこと」は存在しない。
 でも、神を信じていなくても、自分が「しなければならないこと」を見つけている人はいる。
 「これをすることが自分の運命なのだ」と心から思えている人は何が違うのか。
 それは、たぶん「物語」があるかないかなんだと思う。
自分のなかに、これが「しなければならないこと」なのだと信じられる物語があるかどうか。


 外科は人間が神と接する局限の境界にまで、医者としての職業が基本的に命ずることを強力に行う。(…)トマーシュが初めて麻酔で眠らされている男の皮膚にメスを置いて、毅然とした態度で、一気に正確な動きでさっと切り開いたとき(上衣、スカート、カーテンといった、生命のない生地の一片であるかのように)、短い時間だがとても強い神への冒涜の感覚を経験した。しかし、まさにそれが彼を医学にひきつけた! これこそが彼の中に深く根ざしている"Es muss sein!" (そうでなければならない!)で、そこへ彼を導いたのは、偶然でも(…)、外的なものでもなかった。
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』


 「好きだから」の感情が強く維持しつづけ、無意味さの空虚にほとんど足を引っ張られないでいられている人は、既に強度のある物語を自分のなかに持っているんじゃないかと思う。自分の物語を持つことを、自然に、無意識にやっているんじゃないかと思う。

 無意識的にできないのであれば、意識して、自分で「しなければならないこと」に至るための確固とした物語をつくらなければいけない。

 過去には物語が外から与えられていた時代があった。
 近代以前は宗教が神話的な物語を与えてくれていたし、近代以降はイデオロギーのようないわゆる「大きな物語」が与えられていた。
 でも、外から与えられる物語には一切期待できなくなってしまった。
ポストモダンの世界では、強度のある物語はどんどん失われていく。
ちょっと前まで多くの人が共有していた強い物語も、力を失ってきている。例えば「努力して良い大学に入り、卒業後は大企業に就職して、結婚して子どもを産み育て、定年までその企業に勤めあげる」的な物語は、今となっては誰も信じていない。虚しいだけだ。

 みんなが共有できる物語を持つのは、相当難しくなってきていると思う。
物語がどんどんとブツブツに分断された、コマ切れのものになってきていると感じるし、Twitterはその傾向を強めるのに寄与する。
 つまり、誰も自分の物語を与えてはくれない。

 だから、「しなければならないこと」を見つけるには、自分で物語をつくらなければいけないのだ。
 辛うじてでも、自分が信じられる物語を。
 意識して自分の物語を作らなければいけない。人から与えられる物語ではなく、自分だけの物語。
 コマ切れではない、強度と持続力のある物語だ。
 自分の過去と向き合い、ある程度は未来を見て、その過去と未来を結んだ線上に、現在の自分が「しなければならないこと」の必然性を見つけて、ストーリーをでっち上げる。

 僕はニーチェの言う「超人」を、神が意味を与えてくれない世界で、現実に意味を作り出せる人として解釈している。

 超人は大地の意義である。あなたがたは意思の言葉としてこう言うべきである。超人が大地の意義であれと。
ニーチェ『ツァラトゥストラ』

 手垢のついた言葉だが、ミュリエル・ルーカイザーの「宇宙は、原子ではなく物語でできている」という言葉は本当に正しいと思っている。
「物語」によって「意味」をつくらなければ、物語をでっち上げなければ、「意味」が生まれない。
 無理やりでもいいから、自分としっかり向き合って、対話をして、「意味」を創りだす必要がある。
 そこにアイデンティティが生まれる。

 おお、お前、私の意志よ! お前は、あらゆる困苦を転回するものだ。だからお前は、私の必然性なのだ。(…)お前は、私の魂を支配するもの、だから私が運命と呼ぶものなのだ!
ニーチェ『ツァラトゥストラ』

 ただし、そうしてできた強度のある物語は、強固であるばあるほど、ほとんど「呪い」として機能するようになってくる。
簡単に振りほどくことができず、たとえ好きじゃなくなったとしても続けなければ場合によっては一生背負うことになる。

 「好きだから」から一歩先に進んで「しなければならないこと」をつくるのは、自分が「どうやって呪われるべきなのか」の問題でもある。

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