いつまでたっても自作モデルが販売できない話

 Vket3に出店したのに、モデルを未だに販売できていないのだ。展示したモデルをいじろうしても、なんだか辛くなってきて、結局Blenderを閉じてしまう。
 ぐちぐち言ってないで手を動かせ、と言われたら全くもってその通りだし、「嘆くな創れお前のために」も間違いないんだけど、販売モデルを作ろうとすると手が止まってしまってどうしようもないので、モデリングしながら考えていることを少し書いてみようと思う。


 モデリングが辛くなってくると、よく思い出す2人のアーティストの姿がある。
 変な組み合わせだが、一人は草間彌生で、もう一人は宮崎駿だ。
 ドキュメンタリーで見たこの二人の創作風景は、強烈に頭に焼き付いている。

 大昔のNHKスペシャルで見た、草間彌生の創作姿は、衝撃的だった。
 草間彌生は、絵を描きながら、
  「これもいい、こっちもいい。ああ、私ってなんでこんなに天才なんでしょう」
 そういう風に、ずっと独り言をつぶやいているのである。
 何という自己肯定感。
 それも冗談めかして言っているような口振りでは全くない。確信を持って自分を「天才だ」と肯定しながら作品を作っていたのだ。
 そんな草間彌生の創作風景は、とても儚げに見えた。
 これも有名な話だが、草間彌生は統合失調症を患っている。このNHKスペシャルでは病院に通う草間彌生の姿もカメラに収められていた。
 草間彌生の果てしない自己肯定が儚げなのは、あるいはそれが尋常の精神から来るものではないからかもしれない。

 これと、ある意味で対極的な創作姿が宮崎駿だと思う。
 「プロフェッショナル 仕事の流儀」で見せた、「面倒くさいなあ」「あー面倒くさい」とぼやきながら、苦しそうに創作する姿。Twitterでも時折画像が回ってくるので、ご存じの方も多いかも。宮崎駿は本当にしんどそうに絵を描くのだ。
 たぶん、宮崎駿は天才というより大秀才なのだと思う。とてつもない努力の人、というのが自分の印象だ。
 創作を苦痛として受け止め、その苦痛と戦いながら必死に手を動かす宮崎駿。その心境を思うと、とても「引退するする詐欺」を笑う気持ちにはなれない。宮崎駿は、たぶん、本当に映画づくりがつらくてつらくて仕方なくて、引退を表明するときは「もう二度とやるものか」という気持ちなのだと思う。それでも、創作に呪われているせいで、どうしても作品をつくることをやめられないのだろう。そんな気がする。


 この極端な二人の姿から、創作の2つの姿勢を考えることができる。

 1つは、自分の創作物を徹底的に愛すること。「ひょっとして、自分には全く才能がないかもしれない」とか、「こんな3Dモデル、誰が欲しがるんだよ」といったブレーキを全て打ち壊し、他人からの批判に傷つくことなく、自分が作った作品を心の底から肯定すること。これらを貫き通す、暴れ馬のような姿勢だ。
 天才なら、自分が暴れ馬であることをほとんど意識することなしに、自分と自分の作品を肯定し続けることができるのかもしれない。

 もう1つが、創作は苦痛であると受け止め、その辛さをボロボロになりながら受け止めることだ。創作は最初から面倒くさいし、疲れるし、しんどいことだということを了解し、完成まで我慢して耐え抜く、ストイックさ。創作に呪われ、ボロ雑巾のようになるまで自分をすり減らしてでも作り続ける姿勢だ。
 天才以外が採れるのはこっちの構えだと思う。真剣に創作をするのは苦しい。中学生くらいのときに村上隆の『芸術起業論』を読んだが、芸術家として成功しようとすることがこんなにも大変なことなのかと、ショックを受けたのを覚えている。今でこそ大家になった村上隆だが、30代くらいまでコンビニの廃棄弁当で食いつなぎ、必死に創作を続けていたのだとか。

 暴れ馬か、ボロ雑巾か。もちろんこれは極端な比喩だし、趣味の、自分の楽しみだけの創作なら、自己肯定も、忍耐も、ほとんどいらないかもしれない。
 それでも、クリエイターとして成功しようと思うなら、自分の創作を通じて、駄サイクル(©石黒正数)に陥らない自己実現をしようと思うなら、創作に、自己肯定と忍耐以外のドライバは無いような気がしている。

 そこまで大袈裟な話ではないのだけれど、自分がクリエイターとして作ったものに「値段」をつけるのは、この2つの道への入り口なような気がした。
 本当はもっと気楽なものかもしれないし、気楽に創作をしたいと思っているのだけど、そんな気がして立ちすくんでしまっているような気がする。そして、いまだにモデルを販売できていないことが自分の足をずっと引っ張っている。

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