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九龍小説「大梟の澱」

【登場人物紹介】
 大梟(ダーシャオ/シャオ):九龍有限公司所属。営業やクレーム処理が担当。190cmを超える大柄な男性で、物腰柔らかな性格。


この道を歩んで行った人たちは、ねえ酒姫、
もうあの誇らしい地のふところに臥したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
あの人たちの言ったことはただの風だよ。

        オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』

 机の上に2つの電話機が並んでいる。
右側が白の電話機で、左が黒の電話機だ。
シャオが取るのは、いつも右側の電話機。毎日この白の電話機で、無数のクレーム対応にあたっている。

「ええ、ええ、申し訳ございません」
「すぐに営業の者を向かわせますので」
「ご利用いただきまして誠にありがとうございます」
「大変ご不便をおかけいたしました」

 毎日何百回と、自分の過失ではない"何か"について謝り続ける。誰か他の人間のミスであったり、明らかに言いがかりとしか思えないクレーム、不慮の事故。そのすべてに、シャオは謝り続ける。
 謝罪の言葉を口にするたび、シャオの頭には澱がたまる。脳の襞のその隙間に、腐ったゴミがこびりついていくような、そんな気がしてくる。

「不快な思いをさせてしまい大変申し訳ありません」
「ええ、すぐ代わりの商品を発送させていただきます」
「今後このようなことがないよう、誠心誠意努力してまいります」
「はい、我々一同深く反省しております」

 脳にたまり続ける澱。きっと、ゆくゆくはこの澱に脳を破壊され、自分の精神はぐずぐずに崩れ落ちるのだろう。シャオはそう確信していた。

「申し訳ございません」
「申し訳ございません」
「申し訳ございません」
――――

***

 一日が終わる頃には、シャオの脳はこびりついた澱で鈍くなり、重くなる。頭に靄がかかっているようだ。意識がぼんやりとして、何も考えることができない。
 シャオはその澱を取り除こうと、毎日浴びるように酒を飲んだ。
 店できつい電脳酒を飲むと、少しだけ頭の中が晴れるような気がする。すがるような気持ちで、ぐいぐいと喉に酒を流し込んでいく。

 電脳酒を3杯も飲むころには、だんだんと呂律が回らなくなってくる。ここまでくるとシャオは手がつけられなくなる。大声を出し、服をはだけたりして暴れ出すのだ。

「刀削麺だ。空に刀削麺が見える。わはははははは」
「ピンク色のピータンがお手々つないでダンスしとるわ、がはは。おもろ」

 などといい加減なことを言っては他の客に迷惑をかけ、店主に追い出される。

 追い出されて道端に転がっても、酒瓶を後生大事そうに抱えてにやにやしている。そしてまた愉しそうに路上で酒を飲みはじめるのだ。

 夜も次第にふけ、屋外で飲む酒は悪い酒になってくる。愉しい気分から一転、シャオは絶望的な気分になり、その暗い気持ちをかき消そうと、またさらに酒を飲む。

「ぼくは病気なんだ。頭にゴミがたまっていて……、病気なんですよ!」

シャオは通行人に寄りすがって泣く。

「ほら、ぼくの目を見てください。うるさい! 殺すぞ。いいから見ろ! ほら、この目、大丈夫に見えますか? そう、大丈夫じゃないんですよ。なあそうだろ。病気、病気なんですよ。助けてくれ。ああ……家に帰らなくては……でもだめだ! だって病気だから……」

最後は虚空に向かって吠える。

「おい、犬にしてくれ! わんわん! 犬だ! うおおお!」

そして道端で就寝する。

 日が昇るとやおら起き上がり、公司の建物へと向かう。職場のシャワーで汗とアルコールを洗い落とし、清潔なタオルで身体をぬぐって、その上に昨日からの泥で汚れたワイシャツを着る。それから再び2つ並んだ電話の前に座り、またクレームの対応を続けるのだ。

 この苦渋に満ちたルーティンに、大梟は全身をひたして生きている。
 それが生活のすべてだったのだ。


 黒い電話以外は。
 そう机の左側の黒の電話だ――。

 めったにないことだが、その日は黒の電話が鳴った。
 シャオは黒の電話機を取ると、黙って電話口の話を聞き、そのまま何も言わずに受話器を下した。
 そして電話機の電源を切ると、外套をはおり、部屋の外へ出た。

***

 指定された場所は、郊外にある高級住宅街の一角だった。

 シャオは開けた広い通りを、いつものくすんだ色のスーツで歩く。
 セキュリティが厳しい地域だが、「鬼龍」の黒客たちのおかげで何事もなく通行することができる。
 街路樹の植えられた通り、庭つきのアパートメント、噴水の音が聞こえる公園。その何もかもがシャオがまとう雰囲気には似合わなかった。しかし、「鬼龍」がうまく立ち回っている限り、シャオは”存在しないも同然”なのだった。

 やがてシャオは漆喰塗りの邸宅の前で立ち止まり、自宅へ入るような気楽さで中に入った。

 その家のリビングには、50歳くらいの中年の女性が、ひとり立っていた。

 躊躇など欠片もなかった。
 女の姿を視認した瞬間、シャオは箭疾歩で間合いを詰め、震脚の踏み込みからゼロ距離で顔面に肘打ちを叩きこむ。
 悲鳴を上げる暇さえ与えない速さ。人中から頭蓋が軋む感触。白い前歯が宙を飛び、それが落ちるよりも早くさらに相手の下顎を掌打する。脳が強く揺さぶられ、女性は血だらけの口から嘔吐した。
 もう声をあげることすらできない。たった2打で、女の抵抗力はすべて奪われていた。

 しかし、シャオはさらにこの女を殴打し続ける。
 そこからは武術ではない、ひたすらの殴打、単純な暴力だった。

 手の甲に熱い血と硬い骨を感じながら、シャオは自然とつぶやいていた。

「本製品は返品不可品に該当し、注文確定後は未開封であっても返品することができません。万が一商品が不良だった場合・破損していた場合は7日以内にご連絡ください」

 研修で覚えさせられた文言が口をつく。
 もちろん、シャオはこの女性が、自分の担当している製品とは縁もゆかりもないことなど、とっくに知っていた。上司からはただのクレーマーではなく「アクティビスト」なのだと教えられている。シャオにはそれが何を意味するのかはわからなかったし、興味もなかった。
 けれども、シャオはこみ上ってくる快い気持ちに言い訳するように、これは”クレーム処理”なのだと自分に言い聞かせるように、淡々と呟きつづける。

「7日以内のご連絡でしたら無償にて返金・交換させていただきます。ただし、商品の到着から8日を過ぎた場合は返金・交換に応じられない場合がございます」

 シャオは鋭い蹴りを放ち、女性の腰骨を破壊した。膝から崩れ落ちようする女の胸ぐらをつかみ、そのまま胸の下に肩を入れて投げる。女は水槽にぶつかり、ガラスが派手に砕ける。

「本製品は、クーリング・オフの対象外となります。特定商取引法が定めるクーリング・オフ期間は適用されませんのでご注意ください」

 カラフルな色をした小さな熱帯魚たちを踏み、シャオは倒れた女に近づく。ずぶ濡れになった女の頭を右手でつかみ、そのまま傍にあるテレビのモニターへ叩きつけた。顔面がスクリーンにめり込み、液晶が割れて青色の火花が散る。

「本製品の利用によって使用者・第三者に損害が生じた場合、故意・過失の有無にかかわらず、当社は当該損害について一切の責任を負わないものとします」

頭を何度かモニターへ叩きつけているうちに、女は動かなくなった。


***


 外へ出ると、門の前に黒色のステーションワゴンが停まっていた。運転席には浅黒い肌をした男が座っている。見知った顔だ。

「ダヘイさん、安全運転でお願いしますよ」と言いながら、シャオは後部座席に乗り込む。
 タヘイは何も言わずに車を発進させた。

 澱はすっかり取り去られているかのようだ。シャオは晴れ晴れとした気持ちになり、満足げに眼を閉じる。
 今日は酒を飲まなくても眠りにつくことができそうだった。

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