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九龍小説「幕間:盤上の師」


【登場人物紹介】
 六鉄(リウティエ):九龍有限公司 董事室付。業務は経営企画(戦略策定及びマネジメント層への提言)と総務(いろいろと尻拭い)。
 木风(ムーフォン):九龍有限公司所属。業務は総務及び営業。


棋譜は天帝に捧げる果実。一手たりとも腐っていてはならない。
                                                                     竹本健治『入神』


 「炮」に触れた瞬間、空気が薄くなり、身体の芯が静かに冷えるような感覚になる。
 その緊張を振りほどくように、リウティエはふと顔を上げてムーフォンを見る。夕方の静まりかえった董事室。シャンチー盤を挟んで向かいに座るムーフォンは、さっきまでの涼しい表情とはうって変わって、真剣な顔つきをして盤を見つめていた。リウティエは後輩のその表情が嫌いではなかった。

 別に真剣な対局というわけではない。
 仕事が一段落ついて窓の外を眺めていたら、ムーフォンがやってきて、「気分転換に一局」と誘ってきた。それだけのことだった。しかし、盤の前に座ると、どうしても真剣になってしまう。ムーフォンも「先輩、他部署のコが、ボードゲームしてるときのリウティエさんの顔、目が座ってて怖いって言ってましたよ」とからかう。確かに、対局中のリウティエは、目つきの悪い顔をさらに険しくする。ほとんど苦しそうなまでに。
 とはいえ、リウティエはシャンチーが好きだった。ムーフォンが「楽しい遊び」としてシャンチーを愛するように、リウティエも真剣な知的ゲームとしてシャンチーを愛しているのだ。

 数ヶ月前、初めて誘ってきたときのムーフォンは初心者同然で、リウティエにはまるで歯が立たなかった。だが、ムーフォンは目を見張るような早さで棋力を上げ、今ではほとんどリウティエに互するまでになっていた。リウティエも、ムーフォンが対局を重ねる度に急成長を遂げているのを、肌で感じていた。
 それだけに、負けたくない。

 リウティエは雑念を振り払うと、盤面へと集中する。そして、静かに息を吐くと、つかんだ「炮」を力強く下ろした。

  炮ニ平五。

 炮を盤の真ん中に据える「中炮」の構え。
 「炮」が敵陣の「帥」を睨んでいる。
 シャンチーの開局で最も良く指されている初手だ。リウティエは、紅方を持ったときはまずこの初手しか指さない。
 ここからリウティエが猛烈に攻め、それに対してムーフォンが「屏風馬」の構えで丁寧に受けながらカウンターを狙う。それがいつものパターンだった。
 当然、黒方の次の手は馬2進3のはずだ。
 しかし――。

  炮2平5。

 リウティエのこめかみが微かに緊張する。

 逆手炮――。

 ムーフォンは序盤から激しくなる変化を選んだのだ。
 一手でも甘い手を指すと命取りになる変化。ノーガードのまま真剣で斬り合うような布局。
 普段はしっかりとした構えをつくり、のらりくらりと受け続けるムーフォンの棋風とは、全く合っていないはずだ。しかも、逆手炮は、正確に指せば紅方が良くなるとされている戦法だった。

  挑発しているのか?

 ムーフォンのポーカーフェイスからは、その真意はうかがい知れない。

  いいだろう。受けて立ってやる。

 リウティエは冷静に「俥」の駒を取り、次の手を指した。
 勝負はすぐに定跡を外れ、混沌とした中盤戦に入っていった。


***


 局面はしばらく進み、難解な終盤の入り口へと突入していた。
 真正面から斬り合いを経て、お互いの陣営は手ひどく傷んでいる。
 局面はほとんど互角か、いや、少しリウティエの方が悪いか……。
 駒の損得はわずかにリウティエが良いものの、駒の働きはムーフォンの方が上回っており、黒方の攻め駒が伸び伸びと紅方の「九宮」を包囲していた。

  一体どこで悪くしたのか。

 難解な曲面になると、リウティエはいつも戦略の難しさに思いを馳せる。
無限に思える選択肢。その中から、砂粒のような「最善」を探し出さなければならない。
 この瞬間は十数通りほどしかない指し手の候補は、数手先ではたやすく組み合わせ爆発を起こし、十手先には数兆通りもの分岐になる。
 この狭いシャンチー盤の上ですら果てしないほどの選択肢があるというのだから、現実の世界で戦略を立てることの難しさには気が遠くなる。
 現実世界の無限の選択肢の中から、勝利へ近づくための一手を選ぶことなど、本当にできるのだろうか。
 それに、現実は完全情報ゲームでもない。あまりにも多くの不確実な要素。このスプロール化した巨大な都市とVR世界、一匹の怪物のような九龍有限公司。そして電脳九龍黒客幇、四凶――。おそらくは、四凶の裏にもさらなる化物が潜んでいる。
 その中で、一人粛々と戦略を立案することは、おそろしく、虚しい。

 だが……と、リウティエは対局前と同じように少しだけ顔を上げてムーフォンを見る。
 ムーフォンは少し局面が有利になったことがわかっているのか、いつもの飄々とした表情に近づいている。けれども、目線は盤の上を素早く動きいており、高速で思考を巡らせていることがわかる。

 だが……、だが今は、紅と黒に分かれて勝負しているムーフォンも、この同じ組織で、同じ方向を目指している。
 ダヘイも、ダーシャオも、ジンシャも、シィエも――そして、ボスも。
 好きになれない奴もいるが、少なくとも九龍の理想については同じ一点を目指しているはずだ。
 だから、折れないままでいられる。
 リウティエは盤上へと意識を戻し、一気に没入する。
 リウティエのなかで思考の炎が燃える。
 脳が熱くなるのと同時に身体が冷える。
 指先が冷たくなる。
 深く、もっと深く。
 リウティエは思考の海に沈んでいく。
 それに呼応するように、ムーフォンの指し手も切れ味を増していった。

***


 公司のビルを出ると、外はすっかり暗くなっていた。初冬の風が、薄着のリウティエを凍えさせる。
 結果は、リウティエの勝ちだった。
 ほとんどリウティエの敗勢だと思われた最終盤、一手だけムーフォンに緩手が出た。リウティエはそれを見逃さなかった。
 悔しい負け方のはずだが、ムーフォンは「いやー、やっぱり先輩強いですねー」とヘラヘラ笑っていた。

 いずれはムーフォンに負かされる日が来るだろう。もしかしたら、数か月後には、リウティエの方が歯が立たなくなっている可能性だってあるだろう。
 でも、それも悪くないかもしれない。
 リウティエはそんなことを思いながら家路に就く。

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