文脈のある音楽たち

 音楽に二つの極を想定することができる。

 一方の極は、「いまここで」しか聞くことのできない必然性の音楽。文脈を共有する人たちによる、ローカルな音。教会の讃美歌。即興で演奏する三線の音色。「聴くべき」音楽たち。

 もう一方の極は、あまねく世界に広がる音の美しさ。文脈を共有しない人たちが、「いつでもどこでも」聴くことができる、グローバルな音楽。オムニプレゼントに地球を駆け巡る、「持ち運べる」音楽。美しいが、「聴くべき」必然性は全くない音楽たち。


Spotifyのこと

 去年からSpotifyで音楽を聴くようになった。
 
しばらくサブスクに抵抗をしていたのだが、好きなアーティストがどんどんサブスクを解禁していき、とうとう折れてSpotifyに登録をしたのだが、これがめちゃくちゃに便利だ。今までのYouTubeや中古CDを探しあさっていた手間は何だったのだという気分になる。とてもとても楽しい。
 自分が好きな音楽の輪郭も、今までよりもパッキリしてきたように思う。

 ただ一方で、膨大な音楽の前に何を聞けばいいのかわからなくなることがある。
 選択肢が多すぎて、逆に選ぶことができなくなってしまうのだ。
 世界には素晴らしい音楽が溢れていて、そのどれを選んでもいい。いや、自分から選ぶ必要すらなくて、Spotifyなら、聴いている音楽の傾向からAIが似たような曲をリコメンドしてくれる。非常に合理的に好きな曲を見つけて、それを気ままに消費することができる。

 ただ、そこには文脈がない。

 Spotifyがリコメンドしてくる曲を聴かなければいけない理由は一つもない。何を聴いてもいいし、何を聴かなくてもいい。あまりにもたくさんの音楽に囲まれながら、聴くべきものがないという虚しさに苛まれそうになる。

 とてつもなく豊かな世界のなかで、何かを喪失している気になるのだ。

 これは前に書いた、単純に楽しいことだけを追い続ける虚しさと構造的に似ている。


 とすると、やはり鍵となるのはナラティヴがあるかどうかなのだ。

 今よりもずっと音楽が「物語」と結び付いていた時代を、僕らの世代は想像することしかできない。
 でも、思うにきっと50年くらい前までは、音楽を聴く行為には文脈とナラティヴがはっきりとあったのだと思う。 

 おじいちゃん世代のパンク・ロックのノスタルジーがある。
  パンク・ロックの時代は、聞くべき音楽があり、それによって採るべき政治的態度・着るべき服装・するべき髪型がぜんぶ規定されていく、ナラティヴに守られた世界。

 でも、そのナラティヴに守られた世界は、とても不自由な世界でもある。 
 この50年間で、分断は少しずつ解きほぐされ、たくさんの人が自由に音楽を聴けるようになってきた。この自由を、手放すことはできない。


VRCのクラブが好きだという話

 フラットな自由を手にしながら、同時に虚しくならないためには、物語をつくっていくしかないのだと思う。
物語をつくっていくといっても、そんな大層なことではなくて、たとえば「試験勉強をしていたときのラジオでたまたま聴いたアーティストのライブに行く」とか、それくらいのナラティヴでいいはず。でも、やっぱりどこかにコミュニケーションがないと、文脈はつくりにくい。そもそも、今は現実のライブにもなかなか行けない。

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 最近前よりもVRChatのクラブに足を運ぶようになっている。
 楽しいから、というのももちろんだけど、現実のイベントにほとんど行けなくなってしまったなかでは、今はVRCのクラブが一番ナラティヴが生まれる場所だと感じているから、という理由が大きいのだと気づいた。
 いろんなクラブがネットで配信しているのも、もちろんたくさんのナラティブを生んでいるし、コメント欄やツイッターのハッシュタグのおかげで一体感もある。けれど、VR上に空間があって、そこに人が集まっている濃密さは、他に代わるものがないと思う。

 とくに、VRCのクラブは、現実のクラブと違って爆音で音楽を浴びたりしにくいぶん、現実のものよりコミュニケーションに重点があるように思える。VR上のクラブではDJをBGMのようにして聴いて雑談している人も多いので、その人たちを「ハッと」させるには、純粋にノれる音楽ではなく、文脈がある音楽を流す必要があるからなんだと勝手に思っている。そういう文脈をもった音楽が、Twitterのゆるやかなコミュニケーションなんかを通して、また新しい文脈を生んでいく。そういう空間がとてもとても好きだ。


蛇足の話:無のグローバル化とディズニー化

 社会学の話を書いていたけど、冗長になってきたのでオマケ的に置いておきます。

 Spotifyの音楽で思い出すのは、ジョージ・リッツアの「マクドナルド化」概念と、マクドナルド化が資本主義によってドライブされた「無のグローバル化」だ。
 「マクドナルド化」はものすごく単純化して言うと、近代化が進むと、社会のいろいろな面で「いつでもどこでも同じものが効率的に手に入る」ようになっていくということ。まるでマクドナルドのように。例えば、ビックマックは東京で食べても大阪で食べても、鹿児島で食べても同じ大きさ・味だろうし、注文してから出てくるまでのスピードもそんなに変わらない。マックの店主が「こっちの方が美味しい」と勝手にスパイスを足したりすることはできない。
 こうしたマクドナルド化による効率的な均質化が、飲食チェーン店だけでなく、社会のあらゆる側面に浸透してきているというのがリッツァの理論だ。
 そして、「マクドナルド化」は資本主義のなかで「無のグローバル化」を推し進めることになる。
 Spotifyが提供してくれるのは、モノでも場所でもなく、あるいはサービスですらない。そして、SpotifyのフラットなUIの前で、ヒトの存在は非常に希薄になる。その意味で、Spotifyが提供しているのは「無」に近い。しかし、「無」は存在としての固有の内容がほとんどないがゆえに、たやすく世界中に行き渡ることができる。

 「われわれは太古から人間にとってきわめて重要で、大きな意味をもっていたものが消失している、あるいはその全部または一部が無に転化している世界についに辿り着いた。世界のこうした窮乏化は、逆説的であるが、かつてないほど大量で多様な(非)場所、(非)モノ、(非)ヒト、(非)サービスが世界で横溢している現象と同時に起きている。これはとてつもない豊穣のただなかにある喪失とでもいうべき奇妙な窮乏である。(…)われわれは水に囲まれているが、のどが渇いて死にそうになっているといえよう」

ジョージ・リッツア『無のグローバル化』

 リッツアはこれに解決策を提示してくれないが、マクドナルド化が極限まで進んだ世界の希望として、アラン・ブライマンは「ディズニー化」概念を提唱する。
 この「ディズニー」もざっくり説明すると、商品などの均質化が進んだフラットな世界は、差別化するためにディズニーランドのようなテーマパークの世界に近づいていく。
 このディズニー化概念でも最も大切なパートは「テーマ化」にある。つまり、対象を全く別のナラティブによって表現することが重要になってくる。VR空間は、ほとんどこの「テーマ化」だけで成り立っている世界だと思う。均質化したフラットなインターネットを、ナラティブによって空間にしていくこと。そしてそこに人が集まって、レイ・オールデンバーグが言う「サード・プレイス」になっていくこと。

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