だいしゅきホールド、ミーム、不死について

 「だいしゅきホールド」の起源を巡る話、傍から見てるぶんにはめちゃくちゃ面白いんだけど、中心となった2人の心情にちょっとだけ寄り添うと、とても切なくて悲しい話だった。こんな言葉だからこそ、なおさら切ない。 
 僕はそう思う。

 たぶん、あのラノベ作家は本当に自分が発案者だと思い込んでいたんだろう。口にしなければ、ずっと思い込み続けていられたのに、承認欲求のせいで気づかないまま自分についた嘘に気づかされてしまったんだとしたらとても悲しい。記憶違いなんて誰だってある。10年も前のことなら大きな勘違いがあってもおかしくないだろう。もしかしたら、自分の人生のささやかな勲章だと思っていたかもしれない。

 「だいしゅきホールド」くらい強い言葉は、下手したら個人の寿命よりも長生きする。
 例えば「パンチラ」が1970年代から使われていて、これからも使われ続けるだろうことを考えると、同じくらいの寿命を持っていると考えていいかもしれない。

 自分の寿命より長生きするものを作りたいという願いは、創作する人なら誰でも持っている願望だろう。たとえそれがある意味下らなく思えるものであっても。

「私よりもこの作品の方が長生きするだろう。」
現時点で最長の詰将棋「ミクロコスモス(1525手詰)」をつくった橋本孝治の言葉。 http://k7ro.sakura.ne.jp/orthodox/o18.html 

 今でこそ「ミーム」はふつうに使われる言葉だけど、この言葉をドーキンスやデネットまでさかのぼると、「ミーム」は人間を乗り物にして模倣され続ける文化情報だ。ドーキンスは遺伝子の対応概念としてミームを考えたけれど、ミームは遺伝子と比べものにならないくらい時間的にも空間的にも広く移動することができる。「だいしゅきホールド」がその起源が忘れ去れたまま多くの人に使われたように。
 自分の生み出したものが、自分の手をはなれ、多くの人の心の中で複製されていくのは、創作が好きな一個人として素直に憧れがある。

 あるいはもっと人間中心的に考えて、アレントの言う「仕事」と「不死」の概念に思いをはせることもできる。
 アレントにとって「仕事(work)≒創作」は「労働(labor)」と明確に区別されるものであり、創作によって個々の生命を超える作品・言葉をつくり出すことだ。人間は死ぬべき運命にある(mortalな)存在だが、創作された作品は世代を超えて残りうる。そうした不朽の作品・言葉は不死(immortal)と言っていい。
 そして、不死はもともとは神の領域に属するものだった。

 死すべきものの任務と潜在的な偉大さは、無限のなかにあって住家に値する、そして少なくともある程度まで住家である物――仕事、偉業、言葉――を生み出す能力にある。こうして死すべきものは、それらの物によって、自分を除いては一切が不死である宇宙の中に、自分たちの場所を見つけることができたのである。不死の偉業にたいする能力、不朽の痕跡を残しうる能力によって、人間はその個体の可死性にもかかわらず、自分たちの不死を獲得し、自分たち自身が「神」の性格をもつものであることを証明する。
ハンナ・アレント『人間の条件』

 創作や言葉によって人間は自分に神の領域に属するものが存在するのだと証明することが出来る、そうアレントは言う。創作や言葉によって、神のイデアを分有(teilhaben)するのだ。
 「だいしゅきホールド」を不朽の言葉だと考えられるなら、自分がその言葉の起源だと考えることは、自分のなかに神のような不死を見出したいという願いと結びついている。
 それは承認欲求とは全く次元の違う願望だ。今回の「だいしゅきホールド」事件の発端は、この不死への願望を勘違いによって充足させていた状態を、軽い承認欲求で壊してしまったことにあるのだと、僕はそう思っている。

 書いているうちに何もかんもTwitterが悪いという気がした。Twitterのせいであらゆるものが短絡的に消費されるんや。
 いいねとRTが表示されるせいで、人の評価を気にせずじっくり何かに取り組むことがしにくくなっとるんや。承認欲求は一時的に満たされても、それは一時的に満たされるだけでしかない。ほんとはもっと世代を超えて永続するような創作に思いを馳せるべきなんや。
 ふぁぼもRTも公式では確認できず、毎回ふぁぼったーにログインしてた頃のTwitterに戻してくれ。
 助けてくれ。5ふぁぼが赤ふぁぼと呼ばれて特別視されて、ダ・ヴィンチ・恐山が毎ツイート100ふぁぼくらいで日本トップクラスのアルファツイッタラーだった時代の方が良かったんや。(Twitter老人会)

オワリ

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