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アンコール・イコール・アンコンフォータブル

英語本来の発音と違うような表記で使われる日本のカタカナ語が、なんだか気持ち悪く感じることはあるだろうか。例えば、アンコンフォータブルとか。

おしまい。



終わらない。こんな雑なタイトル回収で終われるはずもない。カタカナ語の奇妙さと面白さに目を留めるのも楽しそうだが、アルファベットよりもカタカナの方が3つの単語の字面が似ていて面白かったからそうしただけで、今回は全く別の話だ。



一昨日、昨日と、日向坂46のオンライン配信ライブを見た。

日向坂46とは、AKB48のライバルとして立ち上げられた乃木坂46の妹分として、欅坂46(現・櫻坂46)に続く3番目の坂道シリーズとして始まったアイドルグループだ。

自分には様々な趣味があり、そのどれも並立しているが、誰かに趣味を聞かれて最初に「アイドルの応援」と答えた場合、なぜか『生粋のアイドルオタクで、それが一番の趣味』と思われがちだ。最初に「アニメ鑑賞」と答えた時も大体、『生粋のアニメオタクで、家にはアニメグッズが溢れている』と思われる。
「一眼カメラでの写真撮影」や「映画鑑賞(主に洋画)」、「読書(主にミステリ)」と答えても『他にも趣味があるんだろうな』と続くことが多いのに、所謂オタクのイメージが付きやすい趣味を最初に答えてみると偏見が先行するらしい。

勿論、アイドルを好きな理由について一日中語ることができるくらいには熱を上げているが、同様に他の趣味にも比重があり、それら全ての複合として自分が形成されていると伝えたいが、第一印象というのは簡単には変わらないものだ。

閑話休題。

そのアイドルの配信ライブを見ていて気づいたことがある。いや、配信・現地に関わらず、有観客のライブでは毎回思うことだ。

アンコールの手拍子は、なぜ一定のテンポにならないのか。

ライブ本編の最後の曲が終わり、メンバーたちがステージから姿を消す。会場は暗くなるが、規制退場のアナウンスは流れない。誰からともなくアンコールの手拍子が始まり、(感染症拡大防止のため声は出せないが、)周りを巻き込んで次第に会場全体をうねりの様に広がる。つられて自分の心も昂っていく。

ここまでは良い。誰だって今この時が、夢の時間が、いつまでも続いて欲しいと願うものだ。

問題はこの後、会場全体の手拍子が少しずつ速くなっていくところだ。2倍も速くはなっておらず、せいぜい1.2倍速程度だろうが、確実にテンポが上がっていく。
自分にはそれが理解できない。というか、許せなくて怒りが込み上げる時すらある。ただ、誰かに何か言って解決することでもなく、個人的に気になるというだけだが。

こんなにも、何千人と集まっているのに、誰も一定のリズムを刻むことができないものなのか。どんどん速くなって、ピークに達したらメンバーたちがステージ上に再び登場するなら分かるが、そんなこともなく、速くなった手拍子のまましばらく時間が経過する。

最初から速かったり、速くなるにしても会場全体が一体となって手拍子が完全に揃っていたりすれば、別に気にならなかったはずだ。
しかし徐々に速くなっていく、リズム感の無い人たちがいて、それに引っ張られてしまうような、自分のリズム感に自信の無い人たちがいて、「多数派に従おうか」とさらにそちらへ寝返る人たちがいて、それなのに全体が揃わず、どこかバラバラなリズムを刻む手拍子。

ものすごく居心地が悪いのだが、自分だけなのだろうか。

『なぜ集団の手拍子が一定のテンポで揃わないのか』は、心理学や音響学を勉強しないと分からない気がするが、『なぜそれが気になって仕方がないのか』は、自分の事だから分かる。

おそらく15年近くピアノを習い、頭の中で一定のリズムを刻むことができるようになったせいだ。



3歳の時、母の意向でピアノ教室に通い始めた。丁度、物心つくかつかないかという時期だ。母は子供の頃にバイオリンを少しやっていたのだが、その経験から、小さい時に音楽をやっていた方が何をするにも役立つと思い、自分の子にはピアノを習わせたかったらしい。同じような考えで、器械体操も習わせてもらっていたが、それはまた別の話だ。

毎週金曜の夕方、車で送り迎えしてもらった。30分ピアノを弾いて、終わりには出席カードに好きなシールを貼って、飴を一つもらって帰る。
中学校に入る頃には、シールや飴は無くなり、1回30分だったのが1時間になったが、やることは変わらない。
バイエルやハノンといった教則本を一つずつ進めていき、クリスマスの発表会が近くなると自分で曲を選び練習する。幼いうちは好きなアニメの主題歌を、ある時は祖父が好きなショパンの「子犬のワルツ」を、少し難しい曲を弾けるようになってからはピアノの先生が候補として挙げてくれたクラシックの数曲のうちから選んだ一曲を、大学への進学を機にピアノ教室をやめる最後は自分が一番好きなドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を弾いた。

ピアノ経験者なら気づいただろう。いくら好きな曲とは言え、15年もピアノを習って発表会で弾くのが「亜麻色の髪の乙女」ということは、この男、そこまで上手ではないと。その通りだ。

そう、小学校を卒業する頃には自覚していた。
発表会に出る、ピアノ教室の他の生徒に比べて自分に才能が無いということではない。

ひたすら毎日反復練習をすることが得意ではないから上手くならないのだということを、だ。

まず左手の練習をし、それから右手の主旋律の練習、そして両手合わせて弾く練習。一曲を弾けるようになるまでいくつか段階があり、変わり映えしないわけではないが、基本は同じことの繰り返しで毎日少しずつ上達するのがピアノだ。それができなければ上手くもならないのは当然だ。でも自分は練習を重ねれば重ねるほど、段々と自分が楽譜を再生するだけのロボットになってしまうようで、それが耐えられなかった。

練習が苦手でも、何年も続ければ多少は上達する。そして周りの人たちも優しかった。親は別にプロのピアニストになってほしくて習わせ始めたわけでもなく、自分も練習が苦手なだけでピアノは好きだったから、高校卒業までマイペースに続けられた。もっとも、ピアノの先生は「勉強の息抜きになればいい」と言ってくれながらも、あまりに練習しなさすぎるとたまに怒っていたが。

確かに息抜きには良かった。
白と黒がいくつも並んでいるだけの無機質な鍵盤を前に、それを反射的に決まった組み合わせで押せるように指を動かす訓練をするうち、自分が自分でなくなり、日々の一切のしがらみから解放され、音楽と一体化する感覚。これは、ピアノを弾くことが好きな理由であり、同時に、ピアノの練習が苦手な理由でもあった。そうして自我を忘れ無意識の領域に入ることは、子供の自分にとっては『頭がおかしくなってしまう』ことと紙一重のように感じられて怖かったのだ。

それは中学生、高校生と成長しても変わらないまま、大学生で一人暮らしを始めてピアノから離れた。そして、楽譜が読めて音楽の知識があり、なまじリズム感だけは鋭いが指は全く動かない人間になった。たまに楽譜を読んでみせて、「ピアノ弾けるの?」と聞かれたとして、その場で一曲披露する力も、自分にはもう無い。

しかし、リズム感だけは残った。約15年間、ピアノの先生が、メトロノームが、そして自分の指が刻む正確なリズムを耳で捉え続けたおかげで、一定のテンポで拍を打つことには自信がある。
これは、母の狙い通りの結果だろうか。ピアノ以外に、ドラムやカホンに触る機会も今までにあったが、体の動かし方は別にして、リズム感さえあれば違う楽器も基本はすぐマスターできた。ピアノをやっておけば役に立つというのはあながち間違いではないのかもしれない。自分でも、ピアノを習っていて良かったと思うことの方が多い。

ただ、そのせいでアンコールの手拍子のズレが気になるようになってしまった。



単純に、「ピアノを長年やってるので」と言えたら簡単な話だ。他の人に理解されるかは分からないが、同情はしてもらえるだろう。「絶対音感とかも持ってて、他の音も気になるんですか?」などと尋ねられ、それはほんの限られた人だけですよ、と笑って返す。

だがここまでの話の通り、自分はすでにピアノをやめ、何ならそもそも上手でもないわけだから、ピアノで得たリズム感を理由に大衆に腹を立てたところで、それが事実だとしても誰にも納得してもらえないのが、この問題の厄介な所だ。

『長く続けてきたから上手』という常識も、『文句を言うなら相応の実力がある』という常識も、自分を守ってはくれない。それは自分のせいでもあるのだが、しかし長く続けて僅かに得たものはあるし、自分はその僅かなものだけを理由に他人と自分を区切ろうとしてしまう弱さを持っているのも確かだ。

誰かに共感してほしいわけではないにしろ、気になってしまうことに自分でも困っている以上、どうにか解決案を出し、自らの歪みを直せないものかと考えているが、今の所は何も浮かんでいない。



思えば、人前で一曲弾いてみせた後に、もう一曲他に弾いてほしいとせがまれると困ったものだ。上手でもないし、練習しないと以前弾けた曲も弾けなくなるせいで、曲のレパートリーも無かったからだ。

そしてピアノをやめた後はどうだ。ライブのステージから去ったアイドルを呼び戻さんとする手拍子のリズムに困らされているではないか。


昔も今も、僕にとってアンコールとは、アンコンフォータブルなものなのだ。


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