『最初の記憶』
AV新法が可決された日の夜だったと思う。
高田馬場にある怪しげな場所(めちゃくちゃ失礼な言い方)で二村ヒトシさんに「君は自分の人生を文章化したほうがいい」と言われた。
mixiで二村さんにファンメを送ったときに返ってきたメッセージが、「君は男優できるかい?」だったことを思い出した。AVの世界に足を踏み入れるきっかけになった言葉だ。
今回も唐突なきっかけに従ってみようと思う。
簡単に言えば自分語り。
不透明度68%くらいのぼんやりした記憶たち。
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保育園の庭。
置かれた6段の跳び箱。
目掛けて走る園児。
ジャンプすることなく正面衝突をする。
崩壊する跳び箱。
泣き叫ぶ園児。
慌てて駆け寄る先生たち。
それを見つめる自分。
これが自分の中にある最初の記憶だ。
ただ、現実なのか夢かはわからない。
重度のヘルニアだったので退院までかなりの時間がかかった。
手術は入院してから半年で計3回、寝たきりの状態で足の親指を動かすというリハビリから始めて、ようやく杖をついて歩けるようになった。でも、つま先は温度を感じなくなったし、左足のふくらはぎは逆側と比べて半分くらいの太さにしかならない。
お医者さんは「50歳くらいで車椅子生活になると思うから、体重管理をしっかりしてね」と優しい脅しをかけてきた。
入院するまで雑誌編集者をしていた。もうなくなりつつあるエロ本の編集者。
「次の号からDVDをつけようと思う。ただ、値段が50円上がるがどう思う?」と会議で聞かれたことを思い出す。そんな時代だった。
ある日の撮影の帰り道。それまでも腰の痛みやつま先の痺れを感じていたが、その日はより一層酷かった。しとしと降る雨のせいだろう、と思っていた。
契約社員といえど経費で落とせるはずなので、歌舞伎町のラブホ街のど真ん中でタクシーを停めて乗り込んだ。車内にはむせるように甘い大人の香りが漂っていた。
翌朝、靴下を履こうとしたら背骨が2.3個抜けるような感覚があった。そこからおよそ1ヶ月、四つん這い以外の体勢が取れなくなり、毎晩2時間おきくらいに痛みと痙攣で起こされ、体力が尽きて気絶し朝を迎えるという日々を送ることになる。
そしてついに救急車で運ばれる日がやってきた。
四つん這い状態でも食事はするしお風呂(シャワーくらいだったが)に入るしトイレにだって行きたくなる。
その日もなんとか這いつくばりトイレに向かった。そしてトイレの手前で、大工である父が付けてくれた階段の手すりに手をかけ立ち上がろうとした瞬間、完全に下半身の感覚が無くなってしまった。
感覚が無くなったはずなのにヘソから下が燃えるように熱く、体内から外に向けて剣山をむやみやたらに押し付けられているような痛みがあった。
叫んで痛みを誤魔化したかったが、恥ずかしさが勝ってしまい声が出せなかった。口を一文字に結んで呻いた。
その呻き声を聞きつけた弟(引きこもり)が祖母を呼ぶ。祖母が父を呼んで、父が救急車を呼ぶ。「回りくどい!」と思いながら呻き続ける。
そうこうしているうちに救急隊が到着した。
当時、寝たきり状態だったのに食事量は変わらずだったので、肥満度は人生の中でも有数の高さだった。
「どうします? 降ろせます?」
「ギリだな。行けなかったら窓から吊るか?」
2階で倒れた巨体を救急車にどう運ぼうか思案しているらしい。どうせなら聞こえないところでやってほしかった。
3人の隊員が130キロの人体を抱えて階段を降りていく。少しの振動でも激しい痛みが発生するので、1段降りるたびに巨体が喚くという地獄絵図。
「重いなー! もうすぐだから頑張れ!」
と言われたので「頑張ります!」と答えようとしたら、「ウス!」と2人の若い隊員が言った。
その後、救急車に担ぎ込まれるも病院がなかなか決まらず45分ほど痛みの中で過ごした。一緒に乗り込んだ祖母はオロオロし、父はその状況に憤慨していた。
そして、ようやく救急病院が決まり出発する。「少し揺れるかもしれませんので」と父と祖母に言った。
しかし、その救急車が到着寸前に単独事故を起こしてしまった。動かなくなってしまった救急車。そのせいで、病院手前約100メートルくらいから巨体を乗せたストレッチャーがアスファルトの上を爆走することになる。少しの振動でも死ぬほど痛いのに。
救急車が事故ることってあるんだ、と思いながら、外で喚くのは恥ずかしいと思ったので拳をより一層強く握りしめた。
忙しくて病院に行けなかった、という言い訳を今でもしているのは、入院中ほぼ寝たきりの状態だったのに「会社に書類を取りに来てくれ」という内容の電話を経理から受けたということが原因でもある。下半身の感覚がなかったタイミングで、だ。
実際に忙しかったというのもあるが、病院が面倒だったというのもある。
唐突に半身不随になった事実を自分の責任だけにしたくないのだろう。
バタバタと半身不随になり、手術とリハビリを乗り越えて徐々に感覚が戻り、ついに一時退院の日を迎えた。腕には何かあってもいいように名前と連絡先と病院名の書かれたバンドが巻かれている。慣れない杖をつきながら迎えに来た親の車へと向かう。
「ちょっとお世話になった人に連絡するから待ってて」
すべての仕事を受け継ぎもせずに入院してしまった。入院だけならまだしも、そのまま退職してしまった。謝罪と経過とこれからについて連絡しようと思い、編集者時代にお世話になったスタイリストやカメラマンに電話をする。
「何かあったら手伝いますんで」
そう言った自分は当時何ができただろう。本当に手伝いくらいしかできなかったと思うが、27歳にして突然無職になってしまった焦りと罪悪感と期待がそこにはあった。
「今、AVの撮影をしてるんだけど、ひとりで現場は精神的に辛いから、いてくれるだけでいいんで今度現場に来て」
ひとりのカメラマンがそう言った。たしかにそのカメラマンはそもそもエロが好きではなかったと思う。そんな人がAVをひとりで作るのは辛いだろう。
「わかりました。連絡貰えたらいつでも。杖ついてますけど」そう言って電話を切ると、車から手を振る親が見えた。
これから1年半後くらいにこのカメラマンと、今の仕事であるコスプレ一本勝負を始めることになる。
これが後にdecとなる自分の、最初の記憶だ。
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