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2021年12月31日

「生まれてきてくれてありがとう」

毎晩変わらないはずなのに、大晦日の夜空はいつもより少しだけ澄んでいる気がする。
今年と来年の狭間で、まばらに光る星を見上げながら呟くと、言葉はふっと輪郭を失って夜空に吸われて消えた。

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「この“で”の中にこよみが書いたやつがひとつあるんだけど、どれでしょーか」

誕生日当日のお祝いは、7階からスタートした。ナギが先ほど撮影した集合デカチェキをニコニコしながら見せてくる。

あっとほぉーむカフェでは、誕生日を中心とした7日間をバースデー期間と呼んでいる。この期間にご帰宅すると、メイドのソロチェキや認定証のランクによる特典をもらうことができるので、いつにも増して必死にご帰宅をするわけである。
また、誕生日を中心とした3日間にご帰宅をすると、その期間にしか食べることのできないケーキとお給仕しているメイド全員との集合デカチェキがプレゼントされる。
これらすべてが無料なのだ。計算するのは野暮だが、金額的に考えてもお得すぎる。もはやバグとしか思えない。

ナギが持ってきた集合デカチェキは、写真の8割を“で”が埋め尽くしていた。その中からノーヒントで、他のメイドが描いた“で”を当ててみろという。さすがに難易度が高すぎるので「えぇ…」と言いながらチェキを受け取る。

納得の有無は置いといて、こんな無茶振りを受けていると『7階にご帰宅しているんだな』という気持ちになる。

「早く当ててもらわないと困るんですけど!?」

ナギが煽ってくる。なにが困ると言うのだろう……。しかし、真剣に当てようと思い目を凝らしてみるものの、色とりどりの文字に筆跡の違いは感じられない。顔に近づけてみても、角度を変えてもどれもすべて同じ“で”に見える。

「まったくわからないです」
「正解はこの“で”でした〜」

ナギが左端の“で”を指差し、勝ち誇ったような表情を浮かべる。すみません、と何故か謝ってしまった。

「ところでこれ、まったく違いがわからないんですけど」
「こよみが私の字を真似して書いたんだよ」
「そんなのわかるはずないじゃないですか」

始まる前から敗北が決まっていたのだ。あまりに理不尽なこの負け戦につい笑ってしまう。

——-

毎年、ご帰宅をするときのテーマを決めている。2021年は「真剣に受ける」だった。

メイドから発せられるどんなことも邪険にせず、できるかぎり真剣に受け止めて返していく。手を抜いたことは身にも記憶にも残らない。そんな答えが出た人間40年目。人生の折り返し地点を過ぎた気がするので、残りは少しでも多く楽しかった記憶を残しておきたいのだ。

ただ、オタクおじさんの熱量をそのままメイドにぶつけるわけにはいかない。この粘度の高い熱に触れさせることは罪だし、そんな罰を受けるいわれは彼女たちにはないのだ。
なので、時と場合や相手によって火加減を変えていたつもりだが、上手くできていただろうか。

外に出ると、風がチクチクと肌を刺してきた。指先は真冬の川に突っ込んだようにかじかんでいて、いくら揉んでも元に戻らない。調理前のトッポギに似ているなぁ、と思ったらまた笑えてきた。

去年の大晦日もこんなに寒かっただろうか。あの日もたしかに忘れたくないはずなのに、記憶にはうっすらとモヤがかかっている。今日のこともいつかは忘れていくのかと思うと、ため息がマスクを伝ってメガネを曇らせた。

——-

「もえもえきゅん!」

マオとさあきゅんに挟まれ、バースデーの集合チェキを撮影する。6階で撮るのは2年ぶりだった。あの時はたしか……思い出そうとするも、お屋敷の喧騒がそれを邪魔してしまう。
去年はこんなに混んでいなかったはずだ、そう思ってもう一度モヤがかった記憶に手を突っ込んでみるも、探し物はまったく見つからなかった。

大晦日に2店舗でバースデー集合チェキを撮るという大きな仕事を終えて一息ついていると、気持ちに余裕ができたのか周囲の会話が耳に入るようになっていた。「今年はどうだった?」「来年の抱負は?」なんていうワードが聞こえてきて2021年の終わりをようやく実感する。

「お待たせしました〜」

マオがバースデーカードを手にこちらへとやってきた。バースデーのソロチェキもお願いしていたことを、手に持っている台紙を見て思い出す。

大晦日を中心とした7日間は、始まりは仕事納めで終わりは三が日という、お屋敷が一年の中でも最大級に混む期間だ。なので、ソロチェキをもらいたいメイドのお給仕情報を調べ、誕生日の集合チェキに誰が映ってもらえるのかを特定し、それに合わせて分刻みで動いていく。それでも予定通りにいくことなんてほとんどなくて、泣く泣く諦めることだってある。

今年はどうだったとか来年はどうするとか、今日はこれから年越しで仕事があるとか話していると、何かを言いたいが言い出せないような、そんなソワソワしたもどかしさをマオが醸し出していることに気付く。どうしたの? と聞こうとしたが、自分のタイミングに任せることにした。

「今日のことを何度も家でシミュレーションしたんだけど」

意を決したのかポツポツと話し始める。

「何度やっても泣いてしまうんだよね」

予想外の言葉だった。置き所のない意識が、テーブルに置いたソロチェキの台紙を指でなぞらせる。

「今日こうやって……」

意識的に外した視線の端に、紅潮していくマオの顔がちらりと映る。

「こうやって誕生日を祝えることが、今年のモチベだったから」

目にしっかりと涙を溜めたマオがこちらを見ていた。泣き顔を真正面から見るのがなんだか申し訳なく思い、目が泳いでしまう。
その真っ直ぐすぎる言葉を受けるには準備が足りなかった。受け止めようと構えた両手からポロポロと感情が溢れるのを感じつつ、視界に彼女を捉えて次の言葉を待つ。

「生まれてきてくれてありがとう」

一筋の涙がこぼれ落ち、マスクが吸収するのが見えた。遠回りのない、最短距離の言葉だった。

オタクが推しに使うことのある『生まれてきてくれてありがとう』という言葉。それをまさか自分が聞くことになるとは思ってもいなかったので、返す言葉に詰まってしまった。何か言わなければならないのに、その言葉がぐるぐると脳内を巡り思考を停止させる。

「どういう涙?」

なんとかその場を取り繕おうと、テレビで見た芸人のツッコミを真似して返す。微妙すぎるこの返し空気を変えることはできなかったが、彼女は少し笑ったような気がした。

「あの時、駅から戻ってきて良かったよ」

無意識に出た言葉だった。彼女の耳に届いたかどうか定かではないが、これだけはせめて伝えたかったのだろうと思う。

帰ろうと駅に向かう途中で見つけた初お給仕のツイート。あの日、お屋敷に戻らず帰宅していたら、この想いも言葉も感情も、すべて経験することはなかったのかもしれない。だとしたら、あの日のご帰宅は人生の中で数少ない『正解』だと言える選択だったのだろう。

バックに戻ったマオがまたやってきた。涙一筋分だけ落ちたメイク以外はいつも通りに戻っている。あらためて今年はどうだったとか来年はどうするとか、半日後にはまたご帰宅するとか話していると、いつの間にかお出かけの時間を迎えていた。

——-

エレベーターを降りると想像していたよりもずっと寒くなっていて、吹き抜ける風が首を縮こませた。見上げたお屋敷の窓には、メイドのシルエットが左右に慌ただしく動いていて、先ほどまでの喧騒が脳内再生される。そのまま視線を横にずらすと、真っ黒な夜空のところどころに星が見えた。

鼻から大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。肺の形が認識できるほど冷たい空気が体内を巡り、徐々に頭の回転を早めていく。今年も色々あったと、こうして毎年思いながら新年を迎えている気がする。さあ、気持ちを切り替えて、年内最後の仕事に向かわなければ。

向かうべきは上野。電車に乗るのが手っ取り早いが、23時の集合時間にはまだ余裕がある。とはいえ、どこかに入って時間を潰すには微妙な時間だ。どうするべきか。
いつもならこんな風に悩むことはないのに、言われた言葉が思考の邪魔をする。

「生まれてきてくれてありがとう」

ぼんやり呟いてみると、言葉は白い煙となって夜空に吸い込まれていく。

感情が追いついていない。言葉自体の意味は理解できる。ただ、それはよく使われる「それわかる〜」くらいの解像度なのだ。

そのままストレートに受け取って「ありがとう」と返すのが良かったのかもしれない。しかし、まさか自分がその対象になるとは思っていなかったので言葉に詰まってしまった。嬉しいという感情を、驚きという衝撃波が吹き飛ばしてしまったのだ。

メイドにこういう話をしたらこう返してくるだろう、その時にはこんな風に話を展開させて……と、あらゆる想定をしてご帰宅する。なので、想定外のパワーワードには固まってしまうのだ。

これはバグだ。
初めて体験した、思考停止の危険なバグだ。

『秋葉原駅』の文字がぼんやりと光って浮かんでいる。あれこれ考えていたら、いつの間にか駅に着いていたようだ。
このまま電車に乗って現場に向かおうかとも思ったが、身体の奥の方の、特定も説明もできない場所にある熱が落ち着かない。
券売機から出てきた領収書を引っこ抜いて踵を返す。

最初に会った日と同じだ。
そんなことを思うとなんだかおかしくて、思い出がマスク伝いにメガネを曇らせた。

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