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(第26回)ニッポンを歩いた象

 ここまで情報化が進んでしまうと、ちょっとやそっとの事件では驚かない。またスマホで撮られた実際の絵や、「それ風」の絵がネット社会のいたるところに転がってしまうので、どうしても現実への驚きが鈍る。

 今回は、江戸時代に長崎から江戸まで行われた「象の旅」の話だ。この話を現代に置き換えてみるとなんだろう。なかなか答えが見つからない。道路上を動かす新型新幹線の深夜搬入か、あるいは扮装するレディガガの大相撲見物か。いや、そういう「想像のつく」類のものではない。まさに、想像を絶する「絵」が各所で見られたのである。

 長崎から大村、嬉野(うれしの)、飯塚などを経由し小倉に至る道は「長崎街道」と呼ばれている。大半が山道で、25宿ある。木屋瀬(こやのせ)宿は、小倉から長崎へと向かう2つ目の宿で、当時の街の風情を偲ぶことができる一角が、資料館とともに残されている。

 旧街道に佇み、ふと家屋の上部を見上げると、そこには象の絵が描かれていた。

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 「足が五本あるのか」

 「あれは鼻で、手のように器用に使います」
 「不思議な動物もおるものじゃのう」

 船底に降りた検使役と案内人との間にこんな会話が交わされた。亨保13年、唐船に載せられた象が長崎港へと入港した。船は広南(カンナム)の港(現在のベトナム・ホーチミン)を出て、インドシナ半島から北上し、中国の寧波(ニンポー)に寄港、順風を待って一気に東シナ海を横断した。風と潮流まかせの命がけの冒険旅は一ヶ月を要した。

 「象というものが見たい」。そう言い出したのは、江戸幕府八代将軍・徳川吉宗である。吉宗は、外国の新知識に貪欲で、戦術・武器、薬・医学などの情報を好んだ。身体の小さい日本馬の改良にも積極的で、象に関しても密かに闘いへの使用を期待していた。そんなわけで、珍獣が上陸、長崎からはるばる江戸までの「献上の旅」が開始されるのである。

 一大プロジェクトのため、多くの準備がなされた。道中の宰領の人選、専門の「象使い」の準備、象の歩行訓練、餌(竹の葉、青草、藁、餡なしの饅頭)、小屋の準備、見物人の統制などの各宿場への通達、象が渡る橋の強化、などである。

 当初輸入された象は二頭だったが、出発前に一頭は病死した。亨保14年3月13日、象と随行者14名は、早朝集合した長崎奉行所の門前で道中安全祈念の酒を酌み交わし、朝日を浴びながら、江戸へと出発した。

 沿道の農夫は手を休め、見たこともない大きな動物に目を見張った。子どもたちは、鼻をブラブラさせながら通る怪獣を杉並木の陰から覗いた。大村に到達した象は、薩摩芋を大喜びで食べた。象は路上で、まるで地響きのようなオナラをした。

 嬉野(温泉)で一行はお湯に浸かり、象も身体を拭いてもらった。飯塚から木屋瀬に至る大小の川は、ざぶざぶと水を切って渡った。ついには豊前小倉にたどり着き、常磐橋を渡り筑前御門口から小倉城下に悠々と乗り込んだ。見物の群衆は、数日前から弁当持参で場所を取り、夜を明かしたほどであった。

 長崎街道だけではなく、山陽道、中山道、東海道など、いくつもの地点にさまざまな痕跡を残しているが、残念ながらこの「おもしろ話」は、観光資源化するほどにはきれいに残されていない。元日刊スポーツ編集委員で、退職後に企画を完成させた、石坂昌三氏の『象の旅』(新潮社、1992年発行)という本が秀逸。この稿でも参照させていただいた。

 左党の象が灘で大酒を食らう話、江戸城で吉宗に謁見する話、浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で過ごした晩年の悲劇など、「象の旅」への興味は尽きない。だが、この「象にまつわる一大スペクタルロマン」が観光に活用されていないのが、なんとも惜しい。

 象はとても賢い動物だと言われている。江戸のある時期、象の目に写った日本の姿を現代のクリエイティビティや映像技術を通じて少しでも味わうことができたら、そんなことを夢想してしまう。

〜2019年8月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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長崎街道の終着地、小倉・常盤橋。象も渡ったとされる九州の「日本橋」だ。

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