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再録「あのときアレは神だった」〜原節子

テレビアニメ、漫画、スポーツ、アイドル歌手などなど。
実在の人物から架空のものまで、
昭和にはさまざまな「キャラクター」が存在した。
われわれを楽しませたあの「神」のようなキャラクターたち。
彼ら、彼女たちの背後にはどんな時代が輝いていたのだろうか。
懐かしくて切ない、時代の「神」の軌跡を振り返る。

(2016年より、夕刊フジにて掲載)

2015年、原節子が亡くなった。95歳だった。

42歳の全盛期に銀幕を去り、その後ついに一度もファンの前に顔を出すことなく、静かに逝った。

彼女のことをとやかく言うのは、1963年生まれのわたしには荷が重すぎる。

わたしが生まれる前年、原節子は引退した。代表作である『東京物語』の公開は、わたしの生まれるはるか前、1953(昭和28)年のことだ。

まだ、ビデオテープの普及もままならなかった頃、わたしは銀座の名画座で原を見た。映画などのカルチャーに関心も高く、あるいは関心の高いフリをしていた大学生の頃だった。たしか、『東京物語』『晩春』の2本立てだったと思う。ジム・ジャームッシュのモノクロ映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がはやっていた86(昭和61)年のことだった。

原は「日本人離れした顔立ち」であり、生涯独身を貫き「日本のグレタ・ガルボ」と呼ばれていた。それは言い尽くされた事実。演技に関していえば、その美貌が災いし、あまり上手ではないとの風聞もあったが、監督の小津安二郎はそれを否定し、彼女の演技力を褒めたたえていた。

やはり、その詳細はわたしが語るべきではない。

ただ、スクリーンのなかのヒロインである彼女はいつまでたっても色あせない。事実、わたしが見た30年前の当時でも魅力たっぷりな女性像を演じていた。いま、改めて『東京物語』を見なおしても、その思いは強くなるばかりだ。

小津映画独特のカメラワークや脚本、笠智衆のたたずまいやモノクロに映しだされた原の「見た目」ばかりに気を取られるが、なによりも「神的」なのは、女優・原節子の「女性としての存在感」だ。

こんな彼女(奥さん)欲しい! 女性としての振る舞い、色気、気遣い、情など、彼女はそのすべてを一瞬のうちにスクリーンに封じ込め、「神」としての永遠の力を手に入れている。 =敬称略 (中丸謙一朗)


映画『東京物語』より


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