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やっぱり無人島が好き〜書籍「誰にも見つけてもらえない」より

漂流、つまり自分のテリトリーを離れ、見知らぬ場所を彷徨いつづけるという行為は、本来嫌なもののはずである。寂しいしおっかないし、いろんなことがめんどくさい。何よりも私は「手持ちぶたさん」なのが、いちばん気に入らない。

それなのに、人は突如としてひとりになりたがり、夜の「飲み直し」にひとり繰り出し、時には放浪の旅に出かけ、また、空想の世界で、無人島のようなものに淡い憧れを抱く。

放浪または漂流の究極の目的地である無人島。人はなぜそんな「空虚な」場所に惹かれるのであろうか。

そのマニアックな味わいは、人間の脳みそのワニの部分に染み入るような蠱惑の味わいだというのか。また、絶叫の声の行き着くあたりにあるという、ジム・モリスン(ドアーズ)の目指した「知覚の扉」へのアペリティフとでもいうのか。

『ロビンソン・クルーソー』のインディーズ的世界

小さい頃、たいていの少年は『ロビンソン・クルーソー』に触れる。

1719年にダニエル・デフォーによって書かれたこの小説世界は、少年の「無人島」への半立ちな気持ちに強烈な影響をもたらす。そこにある冒険心や男としての勇ましさ、自然の中に抱かれる本当の自由さ。少年はそんな物語のコクを味わい、途方もない社会に出ていくための微かな心構えをした。

政治パンフレットの製作者であり、また、経済ジャーナリストのパイオニアでもあった著者・デフォーは、無人島に漂流した主人公の視点から、社会のモラル・宗教・経済などを織り込みながら、あくまでもフィクションとしてこの世界を描いた。

しかし、この小説世界に着想を与えたのではないかと推測される実在の無人島体験者がいる。それが、私掠船の船長(海賊)で博物学者であったウィリアム・ダンピアの遠征に参加していた水夫、アレキサンダー・セルカークという人物である。

1704年、スコットランド人であるセルカークは船内でいざこざを起こし、チリの沖合になるホアン・フェルナンデス諸島で船から叩き下ろされ、4年間の無人島生活を送るはめになった。彼の体験は、彼を救助した海賊で後年バハマ総督となったウッズ・ロジャーズの航海記やアイルランド人作家リチャード・スティールの著述などで、イギリス社会に知られている。

デフォーはこのセルカークをモデルとし、他の航海記や旅行記からもアイデアを取り入れながら無人島小説を書いたと言われている。

しかし、この『ロビンソン・クルーソー』は、出版当初からベストセラーになったというわけではない。当時と現在の出版事情を一概に比べることはできないが、総計で一万部、第10版が出るまでに34年の歳月が掛かった。

おっぽり出され無人島生活を余儀なくされた男と、それをモチーフに「珍種」の物語へと書き上げられた作品世界。それは流行語大賞を取るような時代を代表する感性ではなく、どちらかといえば、ジワジワと順位を上げたインディーズ的感性の賜物だったのかもしれない。


無人島に人生を捧げた男

20世紀初頭、こうした無人島のインディーズ的魅力に人生を捧げた男が現れた。彼の名はトム・ニール。1902年、ニュージーランドのウェリントンに生まれ、両親とともに各地を転々としながら成長した彼は、18歳の時に技術者見習いとして海軍への入隊を決める。

それから4年間ほど、彼は海軍艦艇で太平洋の各地を航海するが、根が自由人であったのだろう、軍を辞めると、あちこちの南洋の島々を渡り歩く放浪者の道を進むことになる。一箇所に留まらず、開墾やバナナ農園の手伝い、短期の船員などのバイトで糊口をしのぐというフリーター生活を続けた。

1928年に気まぐれでニュージーランドに帰国するが、すぐに放浪の虫が疼き、数ヶ月後には再び太平洋の島に戻り、有名なタヒチ島の隣にあるモーレア島に移り住む。第二次世界大戦が勃発し、彼の周辺でも太平洋戦争が行われているのだが、雑貨店の店主などをしながら気楽な生活を送っていたらしい。しかし、この戦争が彼を魅惑の無人島へと導く。

日本海軍を監視するコーストウォッチャーのため、クック諸島北方にある、普段は無人の環礁・スワロー島に物資を届ける仕事を請け負った彼は、かつて冒険者たちがサメや飢餓で命を奪われたといわれる伝説の「宝島」、この絶海の環礁島に魅せられてしまった。

終戦がひと段落ついた52年、彼は無人島になったスワロー島に二匹の猫とともに上陸する。コーストウォッチャーが残した豚や鶏が野生化した島で、釣った魚や育てた野菜を食べ、ハリケーンで破壊された桟橋の再建などをしながら、数年間に渡って無人生活を満喫した。

54年に負傷のため島から救助され、電撃的な結婚と出産を行い、政府が無人島居住を問題視するなどで、しばらく無人島の生活から離れなければならなかったが、これらを振り切るように60年には再び島に舞い戻る。

だが、今度は真珠貝取りのグループが近所に住み着き、嫌気がさして3年後に離島を決断することになる。それでも、無人島暮らしの魅力が忘れられず、1977年に胃癌で病院に担ぎ込まれるまで、しつこく三度に渡って島に住み続けたのである。

彼の無人島での体験をまとめた本のタイトルは、「An Island to Oneself(島ひとり占め)」。少年の瞳か、はたまた無人島おたくか。『ロビンソン・クルーソー』が醸し出した蠱惑的味わいが熟成され、まろやかさが加わった瞬間であった。



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