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再録「あのときアレは神だった」〜バカボンのパパ

テレビアニメ、漫画、スポーツ、アイドル歌手などなど。
実在の人物から架空のものまで、
昭和にはさまざまな「キャラクター」が存在した。
われわれを楽しませたあの「神」のようなキャラクターたち。
彼ら、彼女たちの背後にはどんな時代が輝いていたのだろうか。
懐かしくて切ない、時代の「神」の軌跡を振り返る。

(2016年より、夕刊フジにて掲載)

わたしが駆け出しの編集者だった頃、先輩のカメラマンに、「おまえの撮影の指示はマンガだ。全部にピントが合って都合よく写りこむ。現実の絵はそんなもんじゃない!」と、よく怒られていた。また、企画の立て方や事実の組み立て方も、「おい、そりゃマンガだよ」と、よく笑われていた。

かようにわたしの人生のテーマは「マンガ的!」であるのだが、そんなわたしが最近困惑したテレビ番組(2016年)があった。「天才バカボン」の実写版である。

バカボンのパパは上田晋也、バカボンはオカリナのおかっぱ頭の子、ママは松下奈緒というキャストもさることながら、あの番組の混乱というか、こねくり回した「発酵臭」みたいなものが、見ているこちらにも漂った。残念なことにそれは原作を昇華させたマンガ的な完成ではなく、あくまでも「ギョーカイ的」現実のなかでの完結だったように思う。

まあ、それは無理もないのかもしれない。あの「天才バカボン」は、現実世界ではありえない、「マンガ的」であることが作品の本質である。だから、生身の人間がギャラをもらいながら、ステテコ姿で鼻毛をヒラヒラさせる「フリ」をしても、一生懸命に所作を研究し「レレレのおじさん」の雰囲気を出そうとしても、目ん玉の繋がっていないおまわりさんを登場させても、その「マンガ的」世界観にはまったくといっていいほど届かない。

唯一、納得して見ていられたのは、ママ役の松下。それは、原作のママ自体のキャラが、箸休め的な現実的設定だからである。

いや、わたしはそのテレビ番組の批判をしたいわけではない。強調したいのは、やっぱりバカボンのパパは「究極のマンガ」だということだ。

現実の社会は甘くない。残念ながら、「これでいいのだ」は、バカボンのパパにしか許されないセリフなのだ。 (中丸謙一朗)


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