⑦海に潜られる/outside

 翌日、僕の身体からはすっかり興奮剤の余韻は抜けていて、すっきりとした気持ちのよい朝を迎えた。ああーっ、とゆるい声を出して背伸びをする。窓からふんわりと朝日が差し込んでいた。いいね!

 そして透明な壁越しに僕は園原を見た彼女はまだ寝ている。疲れているのだろう。いや、適度に疲れているからぐっすり眠れるのだろう。健康的な疲労から来る睡眠は何よりも変えがたい。僕なんかはすぐにへばって寝るのにも体力使ってしまうからね。

 彼女を起こしてしまうのも気が引けたので散歩に出かけることにした。普通に着替えて上着を羽織り外へ出る。やはりと言うべきか、お腹は空いていなかった。空腹さえバロバロに食べられてしまったからだ。やつは貪欲で飽食だ。いずれ僕はやつに取り込まれてしまうだろう。でもその前になんとかシュイロに会わなければ。シュイロに会って話を聞かないことには何も始まれない。だからせめて足だけでも残しておいて欲しいな、と僕は思った。


 外には草原が広がっている。来る前と何も変わらない。ただにそこにあって、誰も待っていない。緑がただ緑でいやになってくる。散歩する。草の上を歩いていく。僕は立ち止まらない。上着のポケットに手を突っ込む。手の先にくしゃっとした感触。これはたぶん飴玉の包装紙。僕はポケットによくこういったものを閉じ込めてしまう。もう一つのかたくてするどい感触。これは爪。僕の足の親指の爪だ。僕は足の爪を切るときに爪切りを使わない。足の爪は案外柔らかくて

    端の方に爪で切り込みを入れてゆっくり曲げていくと簡単に剥がれる。子供のころ、木の皮を剥がして遊んでいたようにそうっと剥がす。そうして剥がしたものを僕は口に入れて楽しむ。味はしない。ちょっと汗でしょっぱいだけだ。そうしているとちょっとの間だけ落ち着く気がする。たばことかとは違うんだな。もっと僕の純粋な部分が落ち着く。そしてそれをあらかた楽しんだ後に、ポケットにしまう。捨てるのはなんだかもったいない気がするのと、かわいそうな気がして。それで化石みたいに干からびる。


 歯軋りのような風の音が聞こえる。僕は不安に駆られ背を向ける。朝日が影を作り出し、そこだけに黒い光が訪れる。僕はその影めがけて痰を吐いた。ちょうど心臓辺りに落ちる。草は生えていない。まだ少女のように生え揃っていないだけだ。僕は違和感を思えて覗き込む。周りにはこんなにたくさんの草があるのになんでここだけ生えていないんだろう。長さもまばらな草を掻き分ける。じゃまな土を手で払うとその下からマンホールのようなまるい蓋が現れた。手で触るとひんやりと冷たい。円の中心には引っ張るのにちょうどよさそうな取っ手が付いている。長年放置されていたようで若干錆びてはいるが、それ自体の作りはしっかりしていて、引っ張った拍子に根元から取れてしまうなんてことはなさそうだ。

 試しにその取っ手を引っ張ってみる。思ったよりもその蓋は軽くて、すぐにその蓋は開いた。中を覗き込む。闇だった。ぽっかりとそこだけ抜け落ちたようだ。しかし僕は別のものにもっと興味をそそられた。梯子があったのだ。その闇のさらに深い部分に続くであろう梯子だ。これもすこし埃っぽいが頑丈な鉄製だ。僕はしばらくその穴を覗き込む。ぉぉ、空気の唸る音がする。決める。

 僕は僕の気持ちが鮮度を失わないうちに走り出す。釣ったばかりの魚を抱えるようにおそるおそる。草原を走る僕は馬みたく駆け、鼓動と躍動を交互に飛び分けながらその原の元へ戻る。この鼓動は心臓の音じゃない。目の裏から聞こえる。これは、はやる気持ちというやつだ。


 見えない障害物になんどかぶつかりながらも宿に戻る。園原は食事中だった。何を食べているかは分からない。

「宿の人がくれたの」

 そう言って彼女はうれしそうに僕に朝食を見せる。とてもおいしいようだ。彼女はほころんでいる。見えない。

「あなたの分もあるって」

「いや」

 ぼそこで彼女はぼくがぜいぜいと肩で息をしていることにようやく気付いた。

 驚いて目を軽く開く。

「なにかあったの」

「それが、だね」

 ぼくは息も絶え絶えにマンホールのことを話した。草むらの中にあったこと。軽かったこと。梯子があったこと。闇があったこと。それらをすべて話すとぼくは椅子にどっかりと座り込んだ。そこに椅子があってよかった。なくてもいいやと思っていたけど。


 園原はしばらくうつむいていた。たまに何かを飲み、何かをかじる。僕の見立てだとたぶんトーストとコーヒーだね。たっぷり砂糖を使ったイチゴジャムとあつあつのローストコーヒー。あとゆで卵。こいつを忘れていた。それだけで今日一日がんばれそうだよね。実際には朝そんなものは置いてないし、そんなにうまく作れないし、それに僕らの頭の中はもっとせわしなく忙しいことでいっぱいだからろくに味覚も存在しない。だからそんな朝食にあこがれて空想で空腹を満たすんだ。満たしたりする。

「わかった」

 彼女はおもむろに僕の顔を見上げる。

「そこへいこう」

 そんな毅然とした無意識に僕は思わずまた惚れそうになる。

 彼女は足取り軽く僕の前を歩いていく。僕はそれに続く。昔からある光景だ。ずぅっと続くいつもの光景だ。


 僕たちはすぐに穴に着いた。草を掻き分けて園腹にその穴を見せる。彼女はそれを見て、腕を組んだ。考えている様子だ。しかし彼女は顔を上げる。

「私は入るべきだと思う」

 そうだよね。僕もすごくそう思ったんだ。思わず園原の肩を叩いた。彼女はとてもいやそうな顔をして僕を一瞥した。

「シュイロは間違いなくこの先にいる」

 園腹は暗闇に指を指す・目線を刺す。

「じゃあ降りる? いますぐにでも」

 うん、と即決。僕らは降りる。

 僕が先に降りる。かん、と乾いた鉄の音がする。おそるおそる下に降りていく。まるで地球の核にまで続いているかのような深さだ。そして回りは恐ろしく静かで、空気ですら息を殺して何かに備えているかのようだった。暗闇の夜が僕を取り囲んでいる。こびりついてはなれそうにない。

「どう?」

と園原。彼女はたいまつだ。今の僕に必要なものだ。底が知れない真っ暗闇だけど、彼女の声で何とかなりそうだ。元気が出てきてふわふわ浮いていきそうだ。

「だいじょうぶ?」

 君がそういってくれる限り大丈夫。


 しばらくするとだんだんと目が慣れてきて、視界が回復してきた。ちょうどそれくらいに底にたどりついた。あっけないものだった。ひんやりしていてやわらかい土の感触が足の裏を伝う。園原に合図して彼女の手をとって下ろす。

「何か見える?」

「何も」

 目を凝らし、なんとなくこの空間が奥に続いているのは分かった。しかたないので僕たちはその土がある方向に進んでいく。今度は横穴か、と僕はうんざりした。くたびれてきたものだから。あくびをした。園原にはばれないように。ちょこんと。

 それが合図だったかのように光が浮かんだ。瞳孔が悲鳴をあげる。僕は思わずのけぞる。園原は僕のことを支え、まぶしそうな目で「誰?」と言う。

「やあ園原」

 ぼくだよ、と暗闇の中そいつは肩をすくめる。

「フォガテイだよ」


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