③潜水誘引/outside

 稚拙。。。。排泄。。。。夭折。。。。

 この記号郡をぼくは妖艶だと思った。それらは僕らの目の前にあった。目の前に橋があって、そこの手すりの端に何かで彫ったように刻まれている。真鍮製の表面を削ってできたそれは、冷たく傷ついている。園原はそれを解釈しようと首をかしげたり、指でなぞったりしたが、やがて、時間の無駄よとため息を吐いてあきらめた。

「わたるんでしょ?」

 橋、と彼女は僕に問いかける。わたってもいいんでしょ、と。僕はうなずく。

 僕達は橋を渡った。橋の下では川が走っており、穏やかなようで激しい流れを持っていた。小学生ぐらいの時に、そんな感じのお話を読んだ覚えがある。思い出せない。もしも人が落ちたら、ひとたまりもなく水底へ連れて行かれて、川底の王国で暮らすことになるだろう。僕と園原はそこを渡っていく。途中、道の真ん中に金貨が散らばっていた。きっとあの乞食の落としたものだ。彼もまたシュイロの被害者なのだろう。僕はその金貨を拾ってポケットに入れた。そして当たり前のように僕と園原は橋を渡りきった。金貨が落ちていたこと以外に特になにもなかった。

 橋のこちら側は、さっきまで僕らがいた所と何も変わっていない。草が生え、蜂が飛び、園原がいる。違うことと言えば僕の心臓がないことぐらいだ。心臓がないことで、自身に影響があるかと言うと、そんなことはない。手は温かいし、たぶん血色もいい。目も冴えて眠くはない。身体は問題なく動く。ただ、身体中が無気味なほど静かだ。なんというか、平静なんだ。夜の砂漠のように静けさが波打っている。この感じを僕は知っている。でもうまく思い出せない。

「こっちよ」

と園原が僕を呼ぶ。シュイロの居場所は彼女だけが知っている。

「仮想狂気」

と園原が僕を呼ぶ。シュイロの居場所は彼女だけが知っている。

「助けて」

と園原が僕を呼ぶ。シュイロの居場所は彼女だけが知っている。

「どうしたの?」

    唐突に園原の顔が僕の前に現れる。彼女の顔はかわいい。遠近感が狂ってもかわいい顔をしている。どんなに遠くにいても近くにいても、遠過ぎることはなく近過ぎることもなく、彼女の顔はかわいい。

「なんでもない」

ちょっと軽い立ちくらみかな、と僕は言う。園原は心配そうに眉毛を上げる。だいじょうぶ、と言ってくれる。そう言ってくれる限り僕はだいじょうぶ。

 僕の意識はさっきいくつか平行していた。それらが少しの間のあいだにおいて自立し、その後長いか短いか分からない暗闇が僕の視界を覆って、さぁっと冷たく血が引いていったのが分かった。でも変な感覚だけが残った。ここにいるのは分かるし、記憶もある。でもなぜ自分がここにいるのか分からない、そんな感覚だ。自分の色が溶かされていくような。電源のオン・オフを速く繰り返したような。すぐ真横を天使が笑いながら走り抜けていくような。脳が萎縮していくような。多分僕はここには馴染まないのだ。こちらの世界が僕をジャミングしているのだ。だって園原はなんともなさそうにしている。やっぱり僕がおかしいんだ。それは分かる。だからこそ、そのおかしさを認めたくない。

    唇がかさかさに乾燥してしまって、あちこちがひびわれてしまっていた。僕は唇をよく舐めるから。それはいけないことなんだよ、やめなよ、と園原にもよく言われる。でも僕はそれを無意識にしてしまって。今もほら、不安を拭うように唇を舐めてる。一瞬だけ潤って、すぐに乾く。昨日吐いたうそみたいなもんさ。皮がかぴかぴになってがさがさで、手で触るとちくりと音がする。かさりと皮膚が薄くはがれてひりひりする。そしてはがれて露出した下の皮膚も舐める。震える歯でそこを噛んで、微かで確かな血の味を求めるためにもっと強く噛んだりする。僕はこの剥がしている瞬間が嫌いじゃない。剥がしてる過程はもっと好きだ。確かに、もし誰かにやめなよ、とか言われたらその時は悲しくなってやめる。でも結局僕はそれを続けてしまうだろう。だってそうしたいんだ。そうしなくてはいられないほどに。それがかなしい。言ってることは理解できるんだけど。

   僕がそう思っていると園原がなんとなく寄ってきて、上着のポケットからおもむろにリップクリームを取り出して、それを僕のくちびるに塗ってくれる。あまりいい顔をしてはいない。むしろ怒っているように見える。でもちゃんと塗ってくれる。優しい気持ちになる。僕の腐敗も止まる。

「あなたはあなただけのものじゃないのよ」と園原は言う。「あなたはあなたの周りの人の数だけいるの。そしてそれはみんな同じ」リップクリームを塗り終わる。僕は太陽をみる。まぶしいけど、君は輝いているね。僕は知っている。君に単位はないよ。

 歩くしか脳の無い猿みたく歩いた。園原が前を歩く。彼女の歩き方はリボンを付けている。僕の歩き方はリボンの後をつけている。僕はその影に触れるか触れないかぐらいのところで歩く。辺りの景色は少しずつ変わっていった。さっきまでは草と風と蜂しかいなかったのに、今では歩く度に道がだんだんと舗装されていってる。ちらほらと看板が立つようになり、どこどこの湖まであとどのくらい、どこどこの城まであとどのくらい、とか書かれていた。

「今はどこに向かっているんだい」

 と僕は尋ねる。なにしろ、もうずっと坂道を歩き通しで疲れてしまったから……。「できればそろそろ休みたいな……」

「街に向かってる」けろっと彼女は言う。「大丈夫よ。あともう少しで着くから」園原はあんまり疲れていなさそうだった。規則正しく身体を揺らして進んでいる。坂道をずんずん進んで行く。服もよたれてない。疲れって服にもあらわれるんだよね。僕の服なんて、それはもうしわくちゃさ。

「ほら、見えてきた」

 と先に坂のてっぺんに着いた彼女は指差す。僕は少し遅れて到着する。

「どれ」

「あれ」

    指差した方向には何も無かった。だだっぴろい空間があった。その一帯だけぽっかりと切り取られていて、辺りの景色と不自然に繋がっていた。活気のある青い空と、気持ちよさそうに飛んでいる鳥たち、土と青々とした草が続いていた。でもそれだけ。他には何もない。空間があるだけ。横では園原が相変わらずの読み取りにくい表情で佇んでいたけど、目元に喜びとか、好奇心とか、そういった感情が滲んで見て取れる。僕はもう一度前を向いた。唇が乾燥に侵食されていくのが分かる。その街は、僕には見えなかった。

    僕たちは坂を降りていった。階段があったから階段を使って。やっぱり園原が前を歩いて、その後ろを僕は付いていく。その階段は曲がることなくまっすぐ下に伸びていく。下りきると園原は立ち止まり、一点を見つめ話しかけた。

「ここに入りたいのですが」

 彼女がそう尋ねると、妙な間があった後「大丈夫だって」彼女は僕に振り返ってそう言い、進んで行った。入国(入街?)審査みたいのがあったのだろう。国なら分かるけど、街でそういうのはあまり聞いたことはないな。

 門をくぐると(想像上のね)園原は、

「綺麗なところだね」

 と言った。そうだね、と僕は相槌を打つ。そう言いながらじっと目を凝らしてみた。じぃーっと。でもやっぱり見えない。風のさえずる音しか聴こえない。はっと足元を眺める。影が揺らめいていた。園原のと重なっていた。

「行こうか」

「うん」

    園原は元気よく飛び出して行った。もし人ごみの中だったら彼女を見失ったかもしれない。それぐらい勢いよく飛び出していった。僕は笑う。彼女はあちこち回りながら何かをしきりに眺めたり、感心したようにうなずいたり、愛想よく誰かと喋っていた。

 僕はと言うと、座る場所がないので適当に地べたにあぐらをかいて彼女の行動を見ていた。園原のいる世界の人々は僕を認識できているのだろうか。もし見えているのなら妙な人間、じゃまな奴だと思われているに違いない。何しろ特に場所も選ばずに適当に座っているのだから。もしかしたら露店の賑わう道のど真ん中にいるのかもしれない。太極拳をやっているおじいさん。おばあさん。その側をイヤホンで自分に蓋をした大学生が自転車で通り過ぎて行く。店の前の落ち葉を掃くイタリア料理店の新人さん。友達との会話に夢中な女子高生。公園で現代の吟遊詩人が泣き喚き、隣で演歌を歌うフランス人。空いたベンチでベビーカーを片手に愛する旦那の悪口を言い合う主婦。飲みかけのアルミ缶コーヒー。ハエの死体。何で濡れているのか分からないコンクリート。ビルの屋上で朝日を眺める借金取立て屋。夜に臨む若いカップル。捨てられた辞書。税金で植えられた並木道。それを白濁した糞だらけにする鳥の群れ。カラスの呼び声。誘われた路地裏。ナイフの錆び。悪魔に見初められた処女がこの世に復讐を誓う最中、望まれない胎児が悲鳴をあげる。

 そんな中に僕は一人で座り込んでいる、かもしれない。何も聴こえず、言わず、考えないでぼーっとしている。でもそしたら僕はその渦の中で、どうやって自分を探して行けばいいんだろう。誰が僕を観測してくれるのだろう。僕の靴紐が解けたとして、いったい誰が立ち止まってくれるだろう。

「これ、どうかな」

 見上げると僕は目を細め、顔をしかめた。ちょうど逆光で園原の顔をみることができなかったからだ。彼女の顔は黒い影で染まっている。僕は立ち上がって彼女を見つめた。

「そこの露店で買ったの」

 彼女はこめかみの辺りを僕に見せてきた。髪留めか何かだろう。きっと彼女によく似合う桜色の髪留めだ。

「よく似合っているよ」

 園原は微笑む。でしょう、と言って再び、好奇心の赴くままに走り出した。その後姿はなんか、ふわりと吹かれたマフラーのように見えた。

 僕は思わず俯く。今の僕がとてつもなくホロウで、仕方ないんだ。分かるかい、分かるかい? 僕は園原を見ているけど、彼女の世界を認識できていないんだ。片思いなんだよ、ただの。温まっていない右手で、顔の右半分を覆う。ひんやりと冷たさが伝わってくる。今なら何か見えるんじゃないかと思って。顔を上げる。園原が僕に気づいて手を振ってきた。僕は薄く笑って左手を振り返す。彼女は満足したようにまたどこかに走り去って行った。僕は両手で顔を覆った。じんわりとした、冷たくて暖かい冷たさに包まれる。無いはずの心臓が動いた気がした。すると僕の前で柔らかな風が吹く。反射的に両手の隙間から覗く。

「お前なのか」

 僕がそう言うと、答えるようにバロバロは「オオ」と口を開けた。「オオアイエ」とバロバロは鳴く。

「ここは君の住処なのかい」

「ああ」

 とバロバロは大きく口を開いて僕に擦り寄ってくる。口の中は真っ黒で、舌だけがやたらと赤かった。僕は顔を覆っていた両手を解き、バロバロに触れる。

「君はなんだかあたたかいね」

 バロバロは黒い唇をぐにっとめくりあげて笑う動作をした。

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