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「オタクしんどい」のアウトライン

(こいつは「書く」という行為でしか自身を保てない節があるんだな、とそういう風に思っておいてくれませんか。)

散々、「オタクしんどい」を味わった挙句に私は「それでもやっぱり私は彼等が好き」という感覚を得られることも出来ずにドロップアウトしてしまったのが、事あるごとにこのnoteで触れる「前主界隈」。
前主界隈で推し(達)に見せてもらった景色の中で、私が思ったこと、考えたこと、感じたこと全てに嘘は無くて、その時々できちんと言葉にして、咀嚼してきたつもりではあったけれども、結局最後の最後に、私は上手く消化出来ない感情や考えを吐き出して、逃げてきてしまった。
その時に使っていたTwitter(現X)のアカウントもブログも全て消してしまったのは、確か2年程前の7月だった。
だからSNSの海の中で、その時の推しに一生懸命だった私の欠片はもう残っていないと思うけれど、吐き出した澱は今なお停滞している気がしてしまう。
そこまで追い詰められてしまったのは、きっと、正に「咀嚼してきたつもり」だったからなのかもしれない。僅かに燻った小さな違和感に対して、「でも皆は平気みたいだから」、「皆は喜んでいるから」と目を逸らして、耳を塞いでしまったから。日々のちょっとした違和感を無視しなければ、「私以外の誰か」の基準に合わせ過ぎず、もう少し「自分」の感じたことに素直になっていれば、私は、ちょっとは健全な心であの日の推しのステージを見ることが出来たのかもしれない。
今もそうだけれど、書くということが私の自己救済だったのに、その行為さえもあの時は最早足枷になっていたことに、早く気付けば良かった。
あの時の私と比べると、びっくりするほど今の自分はご機嫌なオタクだ。
推しへの信用をベースにして、推しとの適切な距離が取れるようになった。
良くも悪くも、Vtuberという規模が大きな界隈故に目を凝らさなければ「個」は曖昧になるし、選択肢も多いから多様な繋がり方が出来るところもまた、私の気を随分と楽にしている。
それなのに、やっぱり少し摩耗する自分がいる。
「オタク向いてない」という茫漠とした感覚。前主界隈でも、これを口にする人はそれなりにいたし、私も常々そう思ってはいたけれど。
この「オタク向いていない」に、そろそろ、もう少し具体的なアウトラインを与えないと、また私は苦しくなってしまいそうだと思った。
なので、今日の試みだ。「オタク向いていない」の輪郭をほんの少しだけ明確に描写すること。

きっと、他人を許容する自分のキャパの狭さと、感情や景色を共有したい気持ちのバランスが異常に悪いこと。これが「オタク向いてない」に大きく起因しているんだろうな、とは思う。
何と言うか、「人嫌いなのに人懐こい」傾向があるのかもしれない。
どうしたって、自分以外の誰かが在ると、自身のペースをキープを死守することは出来ない。
思考のペース、喋るペース、諸々を状況や雰囲気を鑑みた上で、相手と合わせるという必要性が生じる。
当たり前だ。これはオタク云々以前に、社会的な生物としてそうしなければならないと思う。自分以外は全員が「他人」なのだから。
もしも関係性の深浅の程度を問わずに何でもツーカー、みたいな人がいるとすれば、それは、相手が随分と添ってくれているのだろう、とそう思う。
ただ、この「当たり前」とは、自分の趣味・嗜好のフィールドにおいて距離を取りたい。
見たもの、聞いたもの、それ等に対して感じたことや考えたことを自分の中で濾過する時間が絶対に必要だ。かつ、その時間は十分に。
なんだったら「余韻に浸る」みたいな行為も含めて、どうしても「ひとり」の時間が欲しい。他人のペースで乱されない、自分だけのペースをどうしても保ちたい。
その癖。そう、本当に、その癖、ここが私の厄介なところで。
「同じ景色を見たあなたはどう思った?」、「同じ景色をあなたはどの角度から見た?」、「どう感じた?」…こんな厄介な好奇心もまた、とても強いのだ。
うっかりすると、自分のテリトリーには他人を立ち入らせない癖に、他人のテリトリーには不用意に立ち入ってしまう可能性があるので、最新の注意を払わなければならない。そして、私は小器用なタイプではないので結局、周りと一定の距離を置き続けてしまう。

人が多過ぎるところが苦手だとか、そもそも根本的に人見知り、だとかはあるけれども、もう少し気軽に、コラボカフェでもイベントでも、アニメイトでも、まあ、何でも、誰かを誘って、もしくは誘いに乗って一緒に行って楽しめればそれで良いと思う。
多分、ラフさ、が欠落している。心持的には、随分ラフに推しのことを好きでいるけれど、どうもオタクスタンス的なものはラフとは程遠いのかもしれない。

ああ、今日も、オタク向いてないな、なんて思う日々。