幼馴染
近くに住んでいる幼馴染が家の前を毎朝通る。
出勤しようとする私とたまに鉢合わせする。と、
毎回必ず遠い記憶から私を思い出したように驚いた表情で
「皐月ちゃん?!だよね?!久しぶり!元気?」と大きな声で話しかけてくる。
呂律が回っていない。
なぜか毎回私をはっきりとは認識してない体裁になっている。
彼女はもう20年以上、アルコール依存を発端に精神を病んで入院を繰り返している。
そのため働くことができず、生活保護を受けている。
幼い頃からの困難に満ちた彼女のこれまでを知っている私としては、
守ってくれる制度があって良かった、と思っている。
当然の権利の行使だ。
でもやっぱり引っかかる時もある。
「皐月ちゃん!今、独り?一人暮らし?車は?車あるの?」
つまり愛情面と所有物の恵まれ具合について
包んでいるようでいて、かなりダイレクトに聞いてくる。毎度。
話が長くなった場合は私の容姿についてを話題にする。
若い頃より美人になっただの、痩せただの。
10代の頃、お世辞にも美しいと言えなかった私を見ると
10代の頃、爽やか系美少女だった彼女は腹立たしいのかもしれない。
私のは化粧による虚構と老朽化によるやつれだってば。
そして最終的には宗教への勧誘が始まる。
相手に対する配慮が出来なくなるんだろうな、と思う。
私は一応心は健康だが、健康だからって何を言われても
トゲを感じない、撥ね付けることができる、というわけではないんだよ。
私がいつまでも独身であること、金銭的にもそれほど裕福ではないという
事実の断片を掴んで彼女は安心するんだろう。
「良かった!私も!私も独り!独り!!」
何が“良い”んだ?
私は「あぁ、彼氏と別れた、というかまた一時離れてるんだな」と思う。
彼女には同じ病の彼氏がいる。
私は真正ぼっちなので、彼氏が居る居ないというところが
最も彼女が私を下に見れる安心材料なんだな、と。
……まあでも仕方ない、病気なんだから
そう思って職場に向かう。
生活保護を受けると家の修理に対しての補助金があるそうで、
それが年に○万円だそうだ。
金額を書くと地域などが特定出来そうなのでぼかすが
1桁台だけれどもかなり大きい金額。
廊下を直したいのに○万円しか貰えない、と彼女はよく嘆いていた。
仕事に行き詰まり極貧状態だった当時の私は
年間○万円であっても1年にちょっとずつ直していけば
かなりの範囲を修理できるのでは?と羨ましかった。
○万円あればうちの雨漏りもいくらかは直せるだろう。
なんだか低レベルな比較のしあいで、
そしてそもそも比較するにも同じ土俵で比べるコトではない気がして、
とても疲れてしまい、ごめん!と思いつつ思考から視界から彼女を消す。
ごめん、私には背負えない。
立ってられなくなる。
立っていられないって、本当に二足歩行出来ないという意味ではなくて
……うまく表現できない、
一人で立っていられなくなる、という感じ…
彼女は何を求めてるんだろう?
自力で病から抜け出そう、みたいな気力は無くなるんだろうか?
……無くなるんだろうなぁ。
でもさ、常に自分を「快」にしてくれる他人なんているのかな。
自分から、自分で、自分を「快」にできることを見つけることが
自由であり、幸せではないだろうかと思うんだ。
人から与えられるものではない、人を介在しないでなる・なれるものが
幸せなんではないかなと。
というような話が全く通じなさそうに見える現在の彼女の風貌。
正直、ヤバそうな人に見えちゃうよ……
正直、いつまでも病気という名の沼の中に漂っていたいように見えてしまうよ、
ものすごく辛辣に聞こえるかもしれないけれど。
どうしたらいいのかがわからない状態になってるのかな。
そこから抜け出したい、と手を伸ばすしかないのではないだろうか。