【書評7冊目】さらば福州琉球館(大城立裕・朝日新聞社)
「琉球処分のあった光緒5年(明治12年)以後、脱清人はとみにふえた。彼らは新しい日本国の沖縄県体制をきらい、清国の庇護を求めて福州へ渡った・・・黄色軍艦を派してわが琉球を救いたまえ、というのが脱清人たちの願いである」(同書13p)
「琉球処分」を受け入れず、清に渡って琉球独立を志す人々がいた。実現することはなかった願いを胸に、彼らは清という異国の地でどのように過ごしたか。その心境を推し量る。
《本の紹介》
「脱清人」や「頑固党」という言葉を知っている日本人がどれだけいるでしょうか。日本の軍隊の武力を背景に琉球王国は解体されますが、それを良しとせずに清に渡った人々がいました。冊封関係が終焉した後の「琉球館」を拠点に、清政府に対して救援の嘆願を行いますが、その願いが受け入れられることはなく、日清戦争での清の敗北によって、「脱清人」や「頑固党」は自然消滅したと言われます。
本書は、史実をベースとしつつ、琉球館で過ごす人々の暮らしぶりを描いたフィクション小説です。嘆願という目的はありつつ、実際にやることと言えば、日々の生活を維持するために日銭を稼ぐこと。「歴史的な親交」のある清の人々からも、「なにをしているのかわからない琉球人」と蔑まれる描写もあります。清に頼ること自体、盲目的な面もあり、清にその余力がないことを見抜くことができません。結果、日清戦争での清の敗北という事実に至るまで、「脱清人」は、思考が止まっていたとも言え、国を失いながら活動することの困難さを物語っています。
著者の大城立裕は、戦中に中国・上海にあった東亜同文書院大学を中退後、米軍統治下の琉球政府で働いた経歴を持ち、基地返還運動などを通じ、沖縄人としてのアイデンティティーを訴えていました。中国への滞在経験があるからこそ、このような作品を描くことができたのでしょう。また、今続く沖縄の問題は、やはり「琉球処分」にあるという問題意識があるように思います。
興味深いのは、「琉球館」の主人たる旧大名格の主人公らが、「琉球処分」後に脱清してきた平民層から脅しを受けるなど、琉球王国時代であればあり得ない対応にたじろぐシーンです。脱清人自体が、封建社会から脱し切れていない点、また、自主・独立の手段として他国の力に頼るだけという点に、限界があったという著者のメッセージがあると考えるのは、考えすぎでしょうか。フィクションとはいえ、「琉球処分」を受けた沖縄人たちの実像をイメージさせてくれる1冊です。
《重要ポイントの要約》
○中国と琉球とのい親交の伝統があったため、日本が琉球の併合を試みたとき、琉球国として清国政府に救援を求めることを考えた。
○琉球国内のすべてが中国を仰いだわけでなく、事大主義、時局便乗の者は日本に追従した(開化党)。歴史・道義を尊ぶ多くの者が、時流に逆行することを恐れずに頑固党と呼ばれながら脱清の道を選んだ。
○頑固党の中心となったのは三司官でもあった亀川親方(うえーかた)盛武。同じく三司官で開化党の中心となった宜野湾親方と激しい確執となった。孫の亀川盛棟も琉球処分後に脱清人となり、帰国時には日本の官憲から拷問を受けている。その後、再度清に渡ったあとで、33歳の若さで死去。
○嘆願の趣旨は琉球救援だが、根っこには反日の感情がある。最初の脱清人である尚徳宏・幸地親方朝常は、清の外交官・李鴻章に対して「清が出兵すれば、その先導となって日本を案内する」との檄文を渡している。
○林世功・名城里之子親雲上(なぐすくさとぬしべーちん)は、日本、清、米国の間で、琉球を3分割する案が進んでいることを知り、抗議の嘆願書を提出して上で自刃した。
○福州琉球館は、明の時代に福州に建てられたもので、「柔遠駅」と言った。琉球からの進貢船が来た際に進貢使節の宿泊先として機能した。同じように、シャム、マラッカから使節を迎える広東にも、「懐遠駅」と呼ばれる建物があった。
○喜舎場朝賢(国王の近侍)や津波古政正(つはのこせいせい、国王の侍講)ら王の近習は、時代の先を見据えた人士であり、頑固党や亀川とは対立関係にあった。
○清は、内乱に加え、西欧諸国からの外圧を受け、日本とも対立が進む中で、琉球に派兵する余力はなかった。日清戦争で清が敗れたことによって、脱清人・頑固党の望みが潰えた。
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