【書評2冊目】琉球王国と戦国大名/島津侵入までの半世紀(黒嶋敏・吉川弘文館)

「しかし、これは単純な軍事侵攻なのだろうか」(同書3p)
島津家の勢力拡大と豊臣秀吉による九州征伐。同時期に起きた琉球王国の経済的基盤となった中継貿易の衰退。両者はどのように関わりあい、「琉球出兵」にたどり着くのか。両者の視点に立ちながら立体的な理解にせまる一冊。
 
《本の紹介》
薩摩・島津家が徳川幕府公認で琉球を攻め、支配下に置く。この琉球攻めの意味について、どれだけの日本人が実態を理解しているでしょうか。本書では、島津家と琉球王国との公的交流を追いかけ、両者の上下関係が逆転し、豊臣・徳川政権へと至り、ついに「琉球出兵」が実行されるまでの両陣営の内情について描かれています。
 
 印象的なのは、当初、島津家が琉球王国にへりくだる態度を取っていたことです。これには、隣国の大名である伊東家との、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県及び宮崎県)の支配権を巡る争いが関係しています。しかし、島津家の優勢が確定してからは、逆に、明からの冊封使を迎えるにあたり、南九州の管理者=島津家の協力が必須となった琉球側が下手に出る姿も確認されます。
 
 この琉球の姿勢の変化を分析するには、明との朝貢貿易をめぐる東アジア海域の環境変化を見逃すことはできません。16世紀前半に猛威を振るった「後期倭寇」などの影響を押さえるため、明が日本を除いて対外交易を解禁したことが、結果的に琉球の国際貿易都市としての地位を低下させ、経済的に日本との関係を無視できない構造を作ったといえます。その一方で、琉球は、政治的には、「中華思想」を強め、より親明的な立場を取ることで、薩摩・日本との摩擦が増えていきます。
 
この構図は、政治・軍事的には米国と関係を持ち、中国がいなければ経済が成り立たないという現在の日本に通じる部分があるのではないでしょうか。力を背景に要求を突きつけられる琉球が被害者の立場であることは言うまでもありませんが、著者は、親明化と硬直化する琉球の対日姿勢について、「チャイナタウン」の性格を持つ久米村出身の謝名親方の三司官就任を指摘します。昨今の社会は、両極端な意見が支持を集め、両者が折り合う=妥協が認められづらい時代になりました。妥協を継続できなくなった時、琉球と薩摩・日本がどうなったか。武力に頼らない国家において、外交でどちらか一方の立場に立つことの危うさを教えてくれる事例といえます。
 
本書は、今を生きる我々にとっても、平和を保つことの意味を考えさせられる一冊です。

《重要ポイントの要約》
○朝貢の意味=明が対外的に禁止した公的通交の抜け道としての琉球。しかし、16世紀に倭寇=武装商船が活発化し、その後明が南シナ海での対外交易を解禁したことにより、中継地としての存在意義低下。
○島津家へのあや船。明からの冊封使来琉に伴う評価貿易に備え、各地の商船を呼び寄せる必要。しかし、すでに琉球は中継貿易の衰退が始まっており、まとまって商船を要請できるのは日本のみ。伊東家、大友家が島津家に敗れたことによる、主要な窓口の島津家への一本化。
○島津家による琉球交易船の停止=琉球との冷戦。冊封使来琉を控えた琉球が折れ、下手に対応。しかし冊封後は、再び連絡は途絶える。
○琉球の禅僧ネットワークを中心とした日本情報収集。一方、朝鮮出兵の際には、琉球から明への情報流出。
○琉球から豊臣への使節派遣。豊臣方は琉球の服属と解釈。これは朝鮮王朝に対する受け止めと同じ。
○島津義久独自の外交ルート。義久周辺の明南部出身者を通じて明江南地域に報告あり。南九州を押さえた島津家ならではの中国直通ルート。
○中央政権と琉球の緩衝材の役割を果たした義久。
○琉球内部、庶家の尚寧とその出身派閥・浦添派と首里派の対立。浦添派が明寄り姿勢。
○出兵と最後通牒。家康への通交と日明国交正常化の仲介者要請を三司官・謝名親方が拒否。
○出兵は「戦争」なのか。現在の領土侵略を伴う国家間の戦争とは異なる。「戦争」と呼ぶことでどのようなイメージを与えることになるかは慎重になるべき。

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