人生定点カメラじゃ飽きちゃって。

去年の暮れに亡くなったおばあちゃんの、
納骨とお参りのために親戚が集まった。

わたしの8つ下の従兄弟のおんなのこと、その弟5つ下の3人で、自分たちの記憶で遡れる範囲の思い出について色々話した。
そしたら、もちろん一番若い従兄弟の弟の方がいちばん古い記憶として覚えているよと言った出来事は、
私たちにとってはついこの間のように覚えている(私たちにとっては高校生と小学生の頃のこと)。
逆に、わたしは従兄弟のおんなのこの方がまだ小さかった頃、自分も小学生だったけど、今度弟が産まれるんだよって教えたくれた時のことも思い出した。
もちろん、その時のことはその弟本人は知るよしもなく、お姉ちゃんの方だって自分では記憶していない。

そんな話を膝で寝たり起きたりしながら聞く娘(5ヶ月)を見ながらみんなで、どれくらいからの出来事なら覚えていてくれるだろうねなどと話していた。

そういう繰り返しが行われている、人生って。

だって今日、納骨してお参りしたおばあちゃんとだって、
わたしたちは旅行に連れて行ってもらったりしていた。
確実に時を共にしていた。

もっといえば、その従兄弟のおんなのこがお腹にいる時からのことをわたしは覚えているし、赤ちゃんだった頃もよく遊んだし、その時、
「いつかこの子とジャンケンとかできる日がくるのか…信じられないけど…たのしみだな」とか思っていたことも覚えている。

それが今、一緒に小さい頃の話をしたり、今度車の免許を取るんだって聞いたり、自分の子をあやしてくれたりしている。なんともまぁジャンケンどころじゃないじゃない。

と、帰ってきて今寝る前になってしみじみとして、
隣でぐーぐー眠っている子を見て、
あぁあっという間に大きくなってしまうんだ、
という事は今ある当たり前の構成も少しずつ形を変えて、
たしかに在ったけどもうかたちには無いもの。
になってしまうのだと、考えるとこわくなった。

こどもの頃以来。
みんな死んでしまう、自分もいつか死んでしまうのだと
途方もない想像もできないような想像が膨らんで
怖くなるやつ。

今は想像できて、こわくなった。
だからこそ、当たり前じゃないね、毎日
っておもえるね。

とっても大切な毎日だね。
確実に在って、明日からは絶対に逃げられないけど
いつかは無くなってしまうから、とってもかけがえのないものだね。

どちらかというと、明日が来ることから逃れられないことが嫌で、浪費しがちでした、日々を。
だけど子どもの毎日はあまりにも一歩一歩が大きくて
見逃せなくって、だから毎日退屈な日が無くなった。
そのおかげて自分の時間や人生や、周りの人も大切にしたい気持ちを持つことができた気がしているので、
とにかく感謝です。我が子に感謝、だけでないよね、我が子に出逢わせてくれた旦那さんに、その親に、自分の親に、その親に…って続いているんだよね。

自分の視点が定点カメラのようになっていたんだな、人生…と思いました。
スイッチできるようになってくるといいね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?