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力が加わって片方へ振りきると、戻る振り子のように

大正12年に生まれた女性に聞いた話
彼女のお父さんは、字を書くのが得意だったらしい。筆で手紙もサラサラと書く。

なので、近所の人からよく書面の作成を頼まれたそうだ。必要な内容を聞いて、お父さんはちょっと待っとれと言うと、相手はお茶やなんか、時にはお酒を出されて飲みながら、手紙の出来上がりを待つ。そして出来上がると近所の人は「いつもありがとう!」とお礼を言う。

私は彼女に「お父さんへ謝礼はあるのか」と訊いた。

いや、紙も墨も家に沢山あったし
お金を貰うのではなくて、戸口が壊れたりしたら、その書面を頼んだ近所の人が直してくれたりしたのだ、と聞き、私は感動した。

物々交換というか、仕事の交換というか、自分で出来ることを提供して喜ばれる、お金のやり取りという無味乾燥的な付き合いではない生活が、まだ昭和初期には大阪にも残っていたのだ。

沖縄の離島に移り住んだ人が主人公の話を読んだことがある。

家は鍵がない。(というか、玄関の他に開けっぱなしの戸が沢山あったのだろう)留守にして帰宅すると、勝手にガスボンベや食べ物がドサッとおいてあったと思うと、何かが突然無くなっては、また戻されている、という現象に驚く描写があった。

その集落では、余ったものは人にあげて
足りないものは借りる、ということが日常であり、そういう生活なのだろう。

モノの所有の概念はあいまいで「誰のもの」という特定をせずとも、どこかにはあり、自分は困らないという絶対の安心があるということだ。貸し借り、譲合いの文化である。
この本は平成に描かれた本だ。

アジア地域の話。
大きな街であっても叔父さん伯母さん親戚も含めて、多くの家族が一緒に住んでいる。
それは誰か働き手がいれば、他の人は働かなくていいからだそうだ。
な、なるほど~!と驚いた。

日本では、働かざる者食うべからずで、家族世帯員はみな働いている風向きがあるが

国によっては、叔父さんが1人、月給を貰える仕事につけば、あとは何人も暮らせるのである。
叔父さんが職を失えば、今度は別の人が仕事を探しにいく。息子や娘が3日に一度日雇いで働いたりして、どこかで誰かが仕事をしたら、それで家族は生きてゆけるのである。

また、気候の恩恵も大きく、寒くないのでどこでも寝れ、果物や葉がどんどん繁るために飢えもない。だから、大人の男が働かずにみな街をブラブラとして暇そうにしているそうだ。

変わって江戸時代の話。

宵越しの金はもたねえ!
なんて江戸っ子の言葉を
「稼いだ金は夜に豪遊して使い果たすのが粋だ」という解釈をしていたのは、昭和の大スターが一晩に何百万円も散財したことを「宵越しの金は…」などとメディアがもてはやしたからだろう。

実際には、江戸の街は人口密集地域で、しかも木材文化であったために火事などの被害が多大となり、人生で何度も無一文になることから、「お金を貯める」文化ではなく、その日に稼いだ日当でその日を暮らすのが通常であったらしい。

一部の商人は月に1日2日しか休みがなく、丁稚奉公などしつけも厳しかったようだが、それは案外、選択の自由だったのではないだろうか。

多くの町人はけっこうブラブラしていて、一日に大工手伝いや舟仕事を2~3時間して終わったり、農家でも朝にだけ働いたら昼からはゆっくりするとか余裕があり、だからこそ余力の文化が花開いたようだ。

海外の冒険家や宗教家が江戸の町にきて、度肝を抜かれた街の清潔さは、木屑、紙屑も拾って集めて売るシステムや、汚物も水路を利用して農家の有機肥料に再生する仕組み(仕事)があったから。

鍵がかからない襖しかない宿に財布を置いて出て、数日後に帰ってきてもそのまま盆の上に財布がある事に非常に驚いた記述や
町民が仕事をしながらでも、家事や遊び、なにをしていても唄ったり笑って日常を楽しんでいる人ばかりだと感嘆し、日本を訪問した外国人は並ならぬ国力をみて、植民地化は困難であると本国へ手紙を送った話もある。
(市政の困難や国民の不満不信がないと宗教的侵略も難しいときく)

たった、100年で日本は価値観が変わってしまったけれど、もともとの国民性は変わっているはずがない。

いちど紙幣経済に振れた振り子が、また今もどる節目(一番高い位置)だと感じている。

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