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屍のゆめ

体を横たえると、内臓にかかっていた圧が緩まって、ラク~になる。

社会の基準が、8時間の労働中にずっと起きてられる事というのは、結構これは厳しい基準なのじゃないだろうか、と思えてきた。

私も労働時間プラス通勤時間プラス家事時間は、当たり前に頭を上にして起きていた。
つまり、夜寝る以外に横になることなく生きてきた。

生活するとはそういう事だと疑問もなかった。

いま、独り暮らしでいつでも横になれる(時間がある)ので、つい、頭を横にコロンと寝転ぶと、非常にラクなのである。

これは、堕落と言えなくもないけれど
『無理していた』ようにも思える。

今の私は、お風呂から(シャワーだとしても)出てもフーッと人目を気にせずゴロリと横になりたくなるし
少し横になると、またスックと動けるようになる。

体力がない
貧血気味
うん、そうかもしれない。

けれども、多少の体力不足でも貧血気味でも、私は健康体である。

健康な女性というカテゴリーに分類される人々でも、もしかすると、多くの時間、体を立てておくと結構しんどいのではないか?それは珍しくない、というかごく当たり前だったりするんじゃないだろうか?
という仮説を思った。

これは、女性に限らず、たとえば『30代を越えると』としてもいい。『人間は』になるかも知れない。

縄文時代(一万年続いた縄文文明)では、労働時間は4時間程度だったと推測されている。

江戸時代まででも同様で、人が集まってさらに余暇の多くなった江戸庶民は文化を大きく発展させた。

農村部の労働時間は朝早くと夕方であり、昼は暑くて働かずに昼寝して、子育てや家事は分散していたので実は労働時間は少なかったと聞いた。

つまり、人間が忙しくなったのは近代になってから。資本主義社会になり、私たちが自分の時間をお金と交換するようになってからだ。

私たちは自分の時間を労働にあてて、それを売ることをしている。自分の時間を自分の生活と関係のない労働として売り、そしてそれは『生活するためだ』と思っている。

実はこれは奴隷と同じなのだと聞く。

いまの私たちは生活するための労働が当たり前となっているので非常に分かりにくいけれど、近代社会以前は、生活の生産活動は自分の生活に直結したものであり、現在の『労働』とは意味合いがまるで違っていたらしい。

私にもよくその違いが「そうなんだー」くらいに曖昧でよく分からない。

なにせ、小学校に上がる前からそのような枠組みで(集団に入るために朝から起きる、時間で区切る、やらなければならないことを一斉にする。食事時間や休息時間が決まっている、上に立つ者の指示にしたがう等々)叩き込まれて成人になるのだから。

私たちは小さなころから囚人と同じ生活をしているんだよ、と言われても、それ以外の活動をおこなう生活が想像できない。

自分の思想のままに、自分の身体のリズムで生きる、そういうのは、もはやそれは『野蛮』なのだ。

ちょっぴり野蛮に憧れている私は、仕事中でも家でも、ゴロンと横になる。

身体の欲求に従う。

ああ、内臓の圧がゆるんで、とてもラクだあ~と思う。もしかすると、脳ミソも圧力から解放されるのかもしれない。

ヨガの最後のポーズは『シャバーサナ』といって死人(屍)のポーズをする。

かーなーり、気持ちいい。
屍になりきるのだ。
全身の力を緩めてなにも思考しない。


生きること(緊張)と死ぬこと(緩和)はセットだな、と思うし
毎日一度、屍となれ、ということなんだな、とも思える(再出発、再び誕生する)

このシャバーサナが気持ちよいのに味をしめて、いつでもゴロンと横になるようになってしまった。(何度も再生する。笑)

人間はもっと
労働ではなくて
もうすこし違う生き方をするべきなんだろう
そう思う。

働くなとか遊べとかそういうことではなくて
なぜ働いているのかどう生きたいのかを理解したい、といいたい。

古代や中世における『奴隷』や『苦役』のように黙ってそうするしかないと思って、自分の生き方や目的とは違う労働をするのは、もうおかしなことだと、きっと皆が感じている。

たぶん
もうあと20年くらいで
自分の生き方や思想にそった生産的労働しかできないとか、そんな感じの社会に変わっていくんだろうなあ、と思っている。

追記:同日午前10時
真夜中に(諸事情で終わらなかった夜勤の休憩中に)書いたこの記事が、朝から『働き盛りと思わしき男性陣に!』いいねを頂いているのを見て驚きました。
女性をカテゴライズしていた自分に気づきました。
男性方、ご同意頂きありがとうございます。
私はまだ男性への偏見があるようです。

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