見出し画像

自分はいない絵

自分の現実の世界というのは
絵画の視点に似ている。

絵画は必ず
「その光景を見ている」側の
つまり書き手の視点で展開する。
けれど
視点の存在そのものが描かれる事はない。

自画像であっても、視点は別にある。
「視点の主から見た」ものとなる。

絵画の創造主を見ることはできない。
創造主の視点から見る世界
それが絵画だ。

視点の主を暴くとき

視点は別のものへと移り
世界は失われる。

朝に、自宅の窓からふと雨を見て、ドキッとした。
何秒かの時が止まったように
雨を見ていた。

ドキッというか
ゾクゾクというか

とにかく、いつもの見慣れた雨を見ただけなのに
初めてと言えるような
慣れない感覚を味わった。

その感覚を無理矢理に現すとしたら…
「畏れ」に近い気がする。

空から水が降ってくる
それ以上のなにか。

ドキッとしてゾクゾクと
言葉にできないけど
「そうか」というような感嘆が私の体に降ってきた。

カスミのような
なんだかわからない
揺れるきもち。

そういうものを表現したくて人は、写真を撮ったり絵画にしたり、曲にしたり、詩を書いたりするのだろう。



雨を見たあと
地下鉄へと下る長いエスカレーター
向かい合わせで登ってくるエスカレーターの列の人々をぼんやり眺めた。

どんどんエスカレーターで近づいて来てはすれ違う沢山の姿。
みんなそれぞれの世界を
その動く座標の視点から感じている。
五感で感じて生きている。


聞いてほしい。
私は共感能力がある。
共感は人間に備わっている当たり前のものだ。

私は自分の感覚しか知らないので、この共感を強烈なのではないかと思ってしまう。

生活にいつの間にか影響している「共感」を、負担に感じる時がある。


「三体」
という本を読んでいる。

何もない
光も音もなにもない無、空の
宇宙空間に、ひとつの球体を置く。

球体はひとつ。
どんなものにも影響を与えたり与えられたりしない。
微かに動くことも変化することもない。

ひとつであることは、永遠の死のようだ。

そこへもうひとつ
同じ質量の球体を置いてみる。

球体は球体を認識する。

しかし同じ質量の球体は
それぞれの重力でやがてくっついて
動かなくなる。
また
ひとつの物体となって、永遠に存在する。

もし何らかの初期運動が与えられても
ふたつの球体は互いの重力により、くるくると永遠に、回り続ける。
死の舞踏だ。

このような宇宙は、単純な計算式で現すことが出来るという。

ところが、その球体が3つになったとたん
劇的に状況は変化する。

スーパーコンピューターにも計算不可能だ。

第三の球は、死の空間に命を与える。
みっつの球体に運動を与えたとたんに

お互いに影響しあって複雑な動きをはじめる。
どんな計算法則も越えて
予測不能に、途方もなく永い時を
果てしなく複雑に動くのだ。

同じ動きは二度とくりかえさないように見えるし、リズムがあるようにも見える。

この3つの球体の動き
三体問題に
解は無いらしい。

そんな軌道が予測不可能な3つの「三体」太陽がある惑星から
たったひとつの母なる太陽を擁する
過ごしやすく美しい地球へと
侵略者がやってくる、というSF長編小説だ。


人の感情に共感してしまう。
「三体」みたいだ、と思った。

影響を受け合う。
くるくると
びゅんびゅんと
沈んだと思えば、次の瞬間また現れる。
不規則と不規則と不規則の
予測不能な私たち。

自分と周りが、複雑に永遠に果てしなく影響し合う。
それはどんな計算も当てはまらない。

胸の中に
スライム状の
無防備な、弾力ある柔らかい場所があり

共感はそこを突いてくるようだ。

トゲやナイフがずぶりと心にささる
でんぷんを水で溶いたような、胸のプルプルした柔らかい場所へ刺さって
そして包み込むんだ。
鋭利なものも、飲み込んでしまう。




私は
役割を一所懸命にやってしまった。

そして、クラッシュしてしまった。
無力感をあじわって
そのあと怒りや不満が噴出した。

役割を引き継ぎ
自ら
ゴーカートのコックピットに乗ったんだ。
どんどんスピードを上げた。
ぐるぐる周回した。

そういう猛スピードで飛ばすゴーカートのようなやり方は、私には向いていない。

ゴーカートに乗ると決めたのであっても
スピードを出さない選択も
可能ではなかったか。


周りの影響を受けていた。
共感してしまっていた。
ズブズブと
スピードを出すことに
無防備に
胸の柔らかい場所へどんどん飲み込んで
まるで、自分が違うものになってしまうかのようなところで

クラッシュした。

クラッシュして、呆然となって気がついた。
この5ヶ月、どんどんスピードが上がっていってた。
コケてみると、恥ずかしいやら情けないやら。
どっと嫌な気分が噴出する。
そして怒りだす。

ほら
コロナとか
仕事とか
学校とか
政治とか
共感が過ぎる。

不規則で予測不能な私たち。
各それぞれが座標となり
視点をもち
影響を与えあっている。


私は元来、子どもっぽくて
娘たちと、どっちが親で子か分からないと言われるほど
駄々をこねやすい。

共感しやすいし
噴出もしやすい。
言葉を選ばずにすぐに出してしまう。

先日ひさびさに他人から「もっと大人になれよ」と言われた。
大人ってなんやねん


嫌な気分になったおかげで
こんな気持ちはまっぴらだ
いい気分になりたい
と思った。

なりたい気分がはっきり分かったのだ。

それは、「私が」ではなく
「周りが」笑っている状況だった。

創造主は見えない。
その視点は
見える絵のなかに存在しない。

私とは視点だ。ひとつの座標だ。

その視点で見たものを描いた「絵」の世界しか
私には見えないんだ。

私は
周りが笑ってないと思ったから
(そういう視点で自分の世界を見たから)
ゴーカートでスピードを上げてぐるぐる回っていた。

もし、周りが笑っているならば
ゴーカートなんて飛ばしやしない。
焦ることもなく
ゆったり景色を眺めて走ったろう。

それこそ、私の求めていたひとつの解だ。

ああ、変えるべきは「私の状況」じゃなかった。
望むのは
自分の幸せのようでいて
しかしそれは
ほんとうは
周りの幸せだったのか。

自分がなりたい気持ちを希求したとき
周りの幸せをもってしか
自分は幸せになれないロジックを発見して

聞きあきた、ありきたりなところへ行き着いて
ビックリした。

つまり、自分の周りの幸福の状態を
「私が」「私の視点が」希望していたんだ。

だから祈るのか。
だから利他なのか。
結局そうなるのか。


娘が高校生の時に、家に帰らなくなった。
そのとき、とにかく心配をしないように自分をきつく戒めた。
私は努力して、娘の自由と幸せを心から信じた。

それは、祈りだと思う。
祈るしかできない。

過去にも何回か疲労こんぱいお手上げ状態の時には、もうありがとうと祈るしかできなかった。

精神科医の名越康文さんは
祈りとは、その人の先入観、主観性を乗り越え、つまり自己投影をしなくなる一番簡単で効果的な方法だと言っていた。

柔らかいスライムに飲み込まれるトゲやナイフは
私の自己投影だ。

影響を受けているのは
私自身の問題意識だ。

相手は三体問題だ。

これは宇宙のまったく自然なことだ。


雨はいい。
木も葉っぱもいい。
そこに視点を注意を向けると
ただ、存在している揺るぎないもの
在るだけだ。
その存在そのものの影響を受けると
私は安堵して
ゆったりとする。

のびのびと自由な絵が描ける気がする。

私は視点だ。
絵のなかには存在しない。

私が絵のモチーフの幸せを祈れば
どんな絵が出来上がる?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?