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40代隠居

江戸時代
40歳は初老と言われ
家業を若者に譲って引退し
自分の好きなことに没入した、という。

当時の商人のあいだでは、40歳で隠居するのは極めてあたりまえの「跡継ぎを育成するための知恵」だったらしい。

えらく賢い生き方だなあ、と40代の私はおもう。

日々の生活におわれて、いま価値のあることにしか関心を持たない生活からの、卒業。

唄でも
絵でも
俳句でも
そうやって文化をどんどん広げていったのか。

表現したくなるのは
自分をもっとわかりたいから
理解したいから。

自分が感じた質感、雰囲気、気持ちを
音符などの記号や色形、映像で現すと
自分を客観的に感じられるだろう。

自分のことを理解するというのは
本当の幸せを感じられるようになる、ということだ。

善も悪も、強いも弱いもなにもない。
ただ、自分とはこれか、という確認
納得
それが、軸になり
揺るぎないものになって
自分がより生きるということになる。


ニッポンは、平成から30年のあいだ経済が停滞したままだ。

しかし世界は進んでいる。
この差がえらいことになっている。

1960年代生まれの私の姉が持っていた『ぬりえ帳』は裏表紙に30円と表記されていた。

1970年代生まれの私はビックリした。
私の『ぬりえ帳』は150円の表記だったからだ。

1960年から1990年の30年間は
ニッポンの物価は上昇し続けた。

経済とは月日とともに上昇するもの

人類の知恵と進化、文化と科学の発展により
有史以来、物価は上昇するのが定石。

しかし、1990年から2020年のあいだ、この国の物価は横ばいだ。

1990年代に産んだ二人の娘は成人したが
卵も米も、ぬりえ帳も価格帯に変化はない。

ニッポンの他の国の物価はセオリー通りに上昇している。

ウサギは居眠り。
周回遅れ。
ニッポンは、いま
物価の安い、低賃金労働国になっている。


私たちは変わっていないのに。
30年まえの強い国ニッポンのままの感覚で生きていたら

いつのまにか
『相対的貧困率が高い国』と分類されるに至った。

米国(サンフランシスコ)で、年収1,400万円は『低所得である』として線引きされたという、センセーショナルな見出しに驚いた。

どんだけ周回遅れの差ができとるねん!

日本は安い国として外国人から
『食べ物が安い』『モノが安い』
と言われているのは知っていた。

何年か前のテレビ番組で
イギリスのラーメンがくそ不味いので、日本人のラーメン職人が乗り込むという放送の中で、現地の不味いラーメンがユーロで四千円もしていたのでたまげた。

アメリカの大卒初任給の平均は年収600万円だという。

日本は全業種平均で、大卒初任年収は200万円台とのこと。
これまでよりもさらに下降しているそうだ。

OECD加盟国のなかで、公的教育支出が最下位のニッポン。

ここから抜け出すには、教育への投資しかないのかも知れない。


経済格差がハッキリとしだして
日本の人材や技術、土地や企業は、海外資本に買われ続けて、もはや上質なもの、美味しいものは海外向けとなりつつある。

やがて日本人が利用できないような、海外向け高額サービスが国内で提供されることが広まり

低収入現地民の私たちは利用できない、というサービス格差が目に見えてあらわになるだろう(北海道ニセコのように)と言われている。

このニュースに、私はどんよりした。

日本人は勤勉で真面目で、正しさが好きで
根性論や精神論が好きだ。

もう出尽くしている商品に
更なる改良を季節単位でおこし

パッケージを変え、キャッチフレーズで彩り
広告をうって
大真面目に
頭打ちになっている顧客を取り合う。

価格競争して
身を削り、精神を疲弊させながら
新たな商品を次々と生む。

清潔で、便利で
よいサービスを
より安く
お客様は神様です。

同じ業種の中で
化かしあい奪い合い傷つけ合いをする。

大真面目に、バカ真面目に
自分達の首を締め合っている。

そんなに多種多様な同種の商品開発はやめて
自由時間を楽しみ
信頼とリラックスを身近に感じたらどうなるだろう。


モノが溢れているなか
グローバル(世界的規模)で
いま、ターゲットは私たちの生きている『時間』となっている。

モノより、時間がカネを生むんだ。


時間を費やすコンテンツで
欲望を煽られ、搾りとられている自分の時間。

私たちは時間という命を企業に捧げている。
時間の奪い合いに自らすすんで応じている。


江戸時代、40代から隠居して
きっと自分のために
時間をつかっていただろうと思う。

それは
上手く生きるのでもなく
正しく生きるのでもなく
自分に対して、丁寧に向き合って生きていたのではないか。

自分の行動を
外の基準に振り回されない。
それが隠居。

隠居した人のイメージは
眺める人のイメージだ。

自分以外のものは、他者もなにも変えられない。

どうすれば現実を変えられるか?
そういう思考とは離れて

「もう、自分は仕舞いだから」
「変わらなくていい」
「頑張らなくていい」
「気分よく過ごそう」

そうやって、隠居という意識によって
周りが変化してゆくのを
眺められたのではないか。

自分が変わらずとも
勝手に
自然に
変わって行く
自然と流れていく現実を

気分よく、自分と調和させていたのではないか。




ニッポンの経済成長率にどんよりして
定年の廃止とか見ると

それが活躍の自由の後押しとは思えずに
幾つまでも労働を求められているととってしまったけれど

時代変われば隠居年齢やんか、と自分を省みて

外のネガティブな面にフォーカスせず
そういう流れもあるだろう
と受け入れた。

すると
こんなに世界と収入格差があったら、ニッポンで真面目に貯金とか、ほんまに価値ないなー
他国からしたら二分の一やのに、爪に火をともしてお金を貯める必要ないから、やっぱりお金は使っていいな!

と、にわかに楽しくなった。

年齢を重ねるとはいいものだ。

なんだか、責任がなくなる感じ!


社会に埋没していながら
こころは隠居で
安堵感をはぐくむ。

勤勉とか真面目とか正解とか
もういいよ
と内心は言いながら

まだまだ若年者だと吹聴してもいい!

まだ若輩者でして…
なんて言って、甘えるんだ。
だって、歳上の人間は腐るほどいる!





昨夜、映画のゴッドファーザーを初めて見た。
面白かった!
今夜はゴッドファーザー2を見よう。




私はだ~らだら過ごしています。
どうぞあなたもよしなに。

買い物帰りの歩道橋にて



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