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ねこしんだ

こういう逸話がある。

オックスフォード大学を見たい、と
観光客がタクシーに乗り込んだ。

タクシー運転手は4つの博物館や植物園、複数の図書館と40ものカレッジを案内した。

観光客は「大学を見たいと言ったんだ!詐欺だ」と膨らんだタクシー運賃請求への支払いを拒んだ。

「大学」に対する概念の違いの話。

私が「あの人の心を覗いてみたい」と
どこでも連れて行ってくれるタクシーに乗り込んだとする。

タクシーはあの人の体の中を案内する。

胸の中、脳の中、各所の細胞を血液を見せてくれる。私は「心の中が見たいって言ったのよ!詐欺だ」と言う。

大学とはいったいどこを指すのか?
街の人にとってオックスフォード大学とは、街じゅうのそれを形成するもの全てなのだろう。

いったい心はどこにあるのか?
あの人の体ぜんぶに
その周囲までも
家族の仕事の人間関係の
さまざまに、心は点在しているような気がする。


娘が育てていた愛猫が急逝した。

手術をしてもだめだった。
自分が悪かった
自分が猫を死なせてしまった。
そう泣く娘に言う。

死んではだめと思うなかれ。
早死にが不幸で
長生きが幸福なんて
それは思い込みに過ぎない。

真っ暗な部屋の中に
懐中電灯の光だけで居ること。

それが生きるということらしい。

死んだら
部屋中の、そこいら中の、電気が煌々とつく。
狭いと思っていた部屋は
広大なお城の片隅だっただけかもしれない。

死んだらそれは明らかになると。

ぜーんぶ見えて
周りを理解して
なんだよーと
やれやれ、まさかこんな具合だったとは
生きている間にはまるで見えていなかったよと笑うのだ。


こんな逸話がある。

狙撃手が、壁に張られた紙の上を射つ。
10センチの等間隔で空けられた穴を見て
その紙の二次元の科学者が言う。
「世界は、10センチごとに穴が空いているのだ」と。

農場では七面鳥に毎日
午前11時に餌を与えていた。
七面鳥の科学者が言う。
「世界は11時に食事が降ってくるのだ」

しかしクリスマスを迎えるある日、11時になっても餌が降ってこなかった。この世界にとっては天変地異。
そして七面鳥は全て農場主によって出荷された。

私はもともと
勘違いをしているのだろう。

この世界の仕組みを、価値を、ルールを
なにか大きく大切なことを
理解できないでいるのだろう。

1980年代から脳科学では「意思はない」と研究結果が発表されている。
自己の自由な意思は科学で否定されている。

ではこの気持ちは
この心は
この有り余るアイデンティティーは
どこから来ているのか?

それは、人間と対象物との間にうまれるものと言う人もいるし

体内や外の水分が媒体している記憶なのだと言う人もいる。

同様に微生物のものだと言う人もいる。

私たちは数えきれない微生物を身にまとい
ともに生きている。
自分を生かす微生物は外界と繋がっている。
喋っては、私を撒き散らすんだ。
動いて触って私を撒き散らす。

一期一会で
微生物のやりとりをしている。
雰囲気や
オーラ
品格とは
その人の微生物の集合体だという。

私はいつも恐れと不安に依拠しており
不安が私の生きる土台のようだ。
毎朝、目覚めた私の中に
さざ波のような不安がある。

日常で嫌な気持ちを発見したとき
それを探ると
必ずそれは不安の上にある。


その不安の奥に隠れているものを探ると
それは死に繋がっている。

孤独も貧困も
痛みも苦しさも怖いけど

その根底では死が怖いんだ。

さらに死の怖さを見つめると
どうやら分離が怖いみたいだ。

自分からの分離。何かからの分離。
それが本当に恐ろしいから
まいにち、まいにち、繋がりを意識する。自分の中との繋がりを見るために
じっと意識を凝らしているんだ。


自分はどうやら
思い違いをしている。

大学はどこだと言うように
心はどこだと言っている。



娘は泣く。
猫の辛さを思って可哀想だと泣く。

猫は100も承知であなたの所へやってきた。

動物はそれを
なにかを
知っていて
その狭く暗い小さな生を楽しみに
苦しみを楽しむために
明るく広い所からやってくる。
気楽に遊びに

かるーくやってくる。

しんだねこは
真面目だったか?
一生懸命だったか?
気まぐれで
軽くて
ワガママで
遊んでばかりだったでしょ
自分の言いたいことだけ言ってったでしょ

猫は100も承知だ。



生き物のなかで、人間ほど苦しんで死ぬ動物はいないと言う。

漠然と、しかし根強く
死を恐れてしまう。
だから血圧を上げて、酸素と栄養を入れて、点滴をして恐れを押し込める。

死ぬことを、勘定にいれられず
恐怖におののく。

私には訳が分からない。
解ったつもりで生きている。

紙の上の科学者のように
七面鳥の科学者のように。

世界は分離していると思い込んで
その恐怖におののいている。

分離した心が「ある」と思って
「ある」ものは傷つくのだとおもって
心が死ぬことに恐怖している。

死ぬ覚悟がない。
だから、生きる覚悟も曖昧だ。

猫は100も承知だ。
それは、生への覚悟だ。
生きる覚悟を持ってる。
死ぬ覚悟を、すでに持っている。

怖がりの私は、心を武装したくてたまらない。

水の記憶も微生物も見えないし解らない。
生も死も解らない。
つまり、動物も植物も、心も人間も
自然のものは、なに一つ本当に解らないんだ。

自然とは、生と死とは
ただ、そうであるだけだ。

解らないものを
なにかわかろうと足掻くのは無駄だ。
二次元の科学者や
七面鳥の科学者みたいなものだ。

猫が教えてくれたように
不安な自分を愛でて、面白がろう。

私はわたしで、自然の一部でただあるだけ
いっこうに解らないんだ。


だから
楽しむしかない。

わたしもワガママで気まぐれで
言いたいことだけ言っていい。

自分の理由だけで生きていい。
自由に。
かるーく。









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