幼稚園の時に始まった通院
母親の運転する自転車に、幼稚園の制服のまま乗せられて通院が始まった。
いつも耳の中を調べ、鼻の通りを良くするために吸引されて。思えばそれが、難聴の何に役立っていたのか、とんと分からない。
診察後、支払いのための待合室に小さなお店があって、そこで販売していた『スピン』というスナック菓子をねだっていた。時々はファンタジュースをねだったり。お昼ご飯に病院から少し離れた場所にあるお蕎麦屋さんで、蒸籠で蒸したお蕎麦を鶏卵を解いた蕎麦つゆにつけて食べる、ちょっと珍しいお蕎麦を食べるのが好きだった。
今で言う『赤手帳(愛の手帳)』を取得出来れば、補聴器もいくらか負担が軽く購入することも出来ただろうし、通院のための交通費もいくらか浮かせることも出来たと思う。それでも、頑なに私と言う娘が【障害者ではない】と手帳を取得することによって認めようとしなかった母親。効果のほどが見えてこない通院で、果たして気休めになったのだろうか。
小学校に上がり、病院を転院する事になったのは、私が小児喘息を患ったからでした。それとほぼ同時期に、生まれて初めて補聴器を装着することになりました。
はっきりいって、ちっとも魅力的に見えない。本体部がベージュ、耳の穴に入るイヤーモールドは透明。近所のおじいちゃんが使ってるボックス型の補聴器の方が、ラジオみたいでそっちの方がずっとカッコ良く見える。
小学一年生の頃も、幼稚園の時と同じくルールが分からないままに過ごしていて、皆が帰宅した後も一人で残り、掃除をしていた。先生も帰ることが出来なかったけれど、多分、私という子供の事をよく観察してどういう考え方をしていて、行動しているのかを見ていたように思います。母親によく報告していたのを見ていました。
小学二年生になってからの補聴器ライフ。本当に気に入らなかったので、クラスメイトに向かって補聴器を掲げ「欲しい人、じゃんけんで勝ったらあげるよ!」と宣言。先生は大慌てで止めに来て、母親に事の顛末を報告していた。もちろん母親からきつく叱られたけど、「要らないもの。なんで着けなきゃいけないの?」と言い返した。それでも「あんたは障害者なんだ」とは言えなかった様子。「あんたは耳が悪いからだよ!」と言われたけれど、それが自覚できなかった。
何故なら、聴こえないことが当たり前だから、耳が悪いと言われても、何をもって悪いとされるのかが、理解できなかった。
確かにテレビを見ていても、聴き取れないから「今なんて言ってたの?」と質問する事が多かった。でも、家族は一言「うるさい!邪魔だから黙れ!」と吐き捨てるように突き放すように言うだけ。聴こえてる家族はテレビの言葉で笑ってる。私だけ分からなくて、部外者みたいな気持ちになり寂しくてたまらず泣いてばかりいた。そんなのはいつものことだから、誰も気に掛けやしない。
自分の気持ちを言葉にすることは辛うじて出来ても、言葉のキャッチボールのような会話にはならなくて、いつまでもコミュニケーションが成り立たなかった。学校でも、伝えたいことが言葉にできず、野生の猿みたいに泣いたり叫んだりすることでしか、気持ちを伝えられなかった。周りのクラスメイトは、成長とともに精神的にも子供から青少年へと変化していくのに、私は猿のままだった。
病院で耳を調べるなら、聴こえてないことが分かってるのなら、言葉も会話の仕方も教えてほしかった。教えてくれる大人はどこにも居なかった。言葉の発音が可笑しいと、クラスメイトにも親戚にもバカにされ、いっそずっと喋らずにいれば良いんじゃないか?とさえ考えた。
聴こえてないことが責められるネタにもされ、「後ろから呼んだのに無視されました。どうして無視したんですか!」と、毎度のように学級会で取り上げられ、聴こえなかったと答えたら「そんなはずはない!喋るじゃないか!」と相手の気が済むまで文句を言われ、私は納得できないまま泣きながら「ごめんなさい」と謝って終わる。
聴こえないことが普通の子どもが、どうやって聴こえないことを説明出来ただろう。『聴こえる』ことを知らないのに。
病院では、何も教えてくれなかった。