中学柔道の記憶(2008~2009)

2008年春

年度が改まり、中学2年生となった。思春期真っ只中である。
新入生への部活紹介は例年のように勧善懲悪のコントをやった。
悪役のオチの一言を提案して採用されたのがうれしかった。
新入生の反応は上々だったが、結局入ってくれたのは3名だけ(後に諸事情により1名が退部)であった。あれだけ楽しんでおきながら冷たいものである。

4月は木更津総合高の招待試合(至真旗)があるが、2年生時に出場した記憶がない。前年の戦績が芳しくないということで招待されなかったのかもしれない。代わりに神奈川の方でやるSpring Cupという大会に出た。予選リーグは個人では全勝だった。午後も試合をした記憶があるので、多分予選は突破することができたのだと思う。
4月(か5月か)に1級を受験した。よっぽどヘマをしない限りは落とされることはない。が、審査をしてくれる岡田社長の講評は辛口であった。普段大して活躍しないTY氏は対戦相手と相性がよく、投げまくっていたので岡田社長の評価が高かった。
4月は東京学館高で練習会もあった。富里・三亀・四街道・千城台南・佐倉という構成である。佐倉中は富里・三亀を上に見て、四街道・千城台南を下に見る立ち位置であった。実際、練習試合は富里・三亀、四街道・千城台南・佐倉というすみ分けで展開された。私は2校の黒帯を瞬殺し、「黒帯って大したことないんだな」などと調子に乗っていた。その後の乱取りは富里や三亀の強者たちに四苦八苦しながらこなした。特に三亀のO氏は強力で、毎回ぼこぼこにされていたので当時は1個上くらいに見えていた。彼が高校で東海大浦安に来て初めて同級生であることを知った。
その後何度か富里・三亀・佐倉の合同練習会が行われた。正直なところ、この練習会で当時の佐倉中のレベルではかませ犬のような立ち位置で、ついていくのがしんどかった。富里はともかく三亀は同い年でも上級生のような体つきで、まるで歯が立たなかった。
しかし、彼らは東京から酒々井の、しかも各駅停車しか止まらない駅の徒歩15分くらいかかる場所までよく来ていたな、と思う。公立中学とはいえ三亀も実績はもちろんそこそこ歴史もある学校なので都内で富里レベルの中学を誘って合同練習を組めそうなものだが…県外の方が手の内を見せなくてよい、ということなのだろうか。もしくはよっぽど強いコネがあったのか。

5月にはまたブロック大会があり、今度は2・3年生の部に出場した。酒々井中学のM氏と団体・個人共に対戦し敗れた。チームとしては団体戦で勝利したし、M氏は個人戦でM先輩に敗れたので、ブロック大会での学校としての体面は保たれた。
印旛郡市錬成大会という大会にも出場し、ここではリーグ戦で成田西中と対戦し、高校で先輩となるTM氏と対戦し、引き分けた。2分の流し(待てがかかっても時間を止めない)という非常にスピーディーな形式であったので、正直実力に圧倒的な差が無い限りは少し守りを意識すれば容易に逃げ切れる試合であった。この大会では引き分けはあれど負けはなかったと思う。
4月に1級に合格し次は昇段試験、ということでまずは形の講習会に参加した。これを受講して受講証をもらうと昇段試験の際に課される形の試験を免除されるというものである。当日行ったところ、参加者が多いので受け身のヘタクソなものは追い出すという。私は特別うまくはなかったが取り立ててヘタクソというわけでもなかったので何とか残ることができた。佐倉中から参加したものは基本的に残ることができたと記憶している。顧問の指導の賜物かは分からないが…。

夏前~総体

六月頭には春の県大会があり、これはオープン参加の大規模な大会だった。
1回戦で東庄中と対戦し、勝利した。2回戦は八木が谷中で、この試合は相手方に個人戦で県上位レベルが複数名いたこともあり、蹂躙された。

翌週くらいには北総大会があり、この試合も個人のパフォーマンスとしては悪くなかったが、予選リーグで敗退となった。この試合でM先輩が旭二中の3階級上(M先輩は55㎏級)で新人戦で県上位になっていた黒帯をぶん投げて驚いたことを覚えている。

6月下旬くらいには大多喜高校の招待試合があった。翌年はこの試合が無かったため、出場したのはこの回きりだった。勝浦中と対戦し、勝てそうな雰囲気もあったが負けてしまった。

7月に入るといよいよ総体であるが、この年はその前に昇段試験を受験した。午前中は負けてしまったが、午後に4人抜きして合格した。筆記試験もあるのだが、前日に同級生に模範解答をもらっていたので難なく回答できた。試験が行われている部屋に入る前にみんなでカンペを見ていたところ、西中の先生に「(カンペを)持ち込んでもいいんだぞ」などと冗談を言われた。他校の先生と話すことなど皆無に等しかったのでよく覚えている。
当時の3年生の先輩たちが何度か挑戦してようやく受かった昇段試験を1回でクリアできたのは誇らしい反面、拍子抜けな気分でもあった。ただ、夏前の試験は有力な3年生などは来ず、2年生と夏前になってもまだ受かっていないような3年が主な受験者なので、狙い目ではあったと思う。

ようやく総体である。県大会は佐倉市市民体育館でやるので、地元チームが出られないのでは屈辱的というものだが、当然郡大会を抜けないと県大会には出られない。私には更に校内予選を勝ち抜く必要があった。
55kg級(総体は学年無差別)の出場枠が、3年生は無制限だが2年生は2枠しかなかったのだ。しかも今回は以前のようにTA氏、TK氏との巴戦ではなく、O氏も同級に落としてくるので、4人リーグで勝ち抜かなければならなかった。
TK氏には安定して勝利を収めることはできるようになっていたが、TA氏には勝率60~70%くらいでやや優勢、O氏は体格もよく腕力もあるので私としては分が悪かったし、団体戦でも中堅を務めていたので上の階級だという認識だった。
よくよく思い返せば、予選にすら出場できなかった同期はどんな気持ちであったのか、当時は慮ることもしなかった。出場者がウン十人といるわけでもないし、校内予選の出場権くらいは平等に付与されてもよいのではなかったか。
校内予選は平日の夕方に実施された。朝から緊張感でピリピリしていた。TA氏とは同じクラスで、普段教室で頻繁に会話するわけでもなかったが、この日はいよいよ目も合わせないほどであった。3年生は審判役で試合が無いのでお気楽モードであった。
試合がどういう順序で進んだかはあまり覚えていない。ただ、一番の山場となるO氏との試合の時には1試合程度をこなしたのみで、そう体力を消耗した状態でもなかった。私としてはO氏を分けて残り2氏を叩き、O氏に次ぐ2番手での通過を狙う作戦だったので、この試合を分けるか落とすかで今後の方向性が変わってくる。
試合では奥襟を取るO氏と距離を取り、攻撃をしかけるという展開が続いた。比較的序盤のタイミングで場外際で私が仕掛けた技(内股だったと思う)がハマり、有効を先取した。力量から見て分け狙いと位置付けるような相手の場合、序盤で先取すると躍起になって取り返しに来るのでなかなか面倒である。やはりやや守勢に回ったところで技ありを取り返された。しかし、取り返された技を技ありと判定するなら先の有効も技あり相当だと顧問から物言いが入り、結局引き分けとなった。この他にも試合をしているはずだが、あまり記憶にない。予選を通過できたので、少なくとも負けてはいないはずである。O氏と試合をしたのは後にも先にもこれ1度きりだった。こうして面倒な校内予選を突破し、郡大会出場にこぎつけることができた。

郡大会では、団体は富里中に負けた後に敗者復活で酒々井中に負けて県大会には出られなかった。残るは個人戦だが、M先輩は郡大会優勝の強豪と1~2回戦で当たり、惜敗した。私はベスト8までは楽勝に勝ち上がれるヤマだったので、M先輩はずるい、代われなどと言っていた。実際、彼と私の山が逆だったら彼は県大会に出場できた可能性も十分にあった。
予想通り、楽勝でベスト8に上がった私は前年秋の新人戦県覇者(郡ではない、県のチャンピオンである)のS氏と対戦した。彼は小学校のより実績十分、当然私と比べて格上も格上であったのだが当時は練習をまじめに行っていなかったらしく、往時の強さはないと言われていた。それでも中学から始めてキャリア1年ちょいの私よりはだいぶ力のある選手だった。試合は相手が奥襟をつかんでひたすら内股を仕掛けてくるという展開となった。万が一にも勝てば大騒ぎ、負けても失うものなど何もない私は内股を仕掛けてきた瞬間に軸足を刈るという攻撃を行い、1回目はもつれて倒れただけだったが2回目くらいで有効を先取することができた。多少力が落ちたとはいえ、新人戦の県チャンピオンが訳も分からない2年坊(しかも小学校でやっていたわけでもないのでいよいよ名が知れていない)にポイントを先取されたのだから若干のざわめきが起こったようである(私は試合中なので周りの反応などもちろんよく分かっていない)。ただ、最終的にはS氏の内股で一本を取られてしまった。もう少し粘ればよかったと思う試合の一つである。
結局佐倉中からは女子団体のみが県大会に出場することになった。
まるっきり誰も出ないよりはマシだ。

郡総体から県総体までの間に、相撲大会に出場することになった。M先輩とT先輩が部活推薦で進学するにあたっては県大会出場の箔をつける必要があるという顧問の考えにより、郡大会での敗戦を受けて急遽参戦することになったのである。一応総体の相撲の部、という位置づけである。ただ、印旛郡にはほとんど相撲部のある学校はなく、団体戦では西中と佐倉中のみの参加であったと記憶している(もしかしたら四街道中もいたかもしれない)。個人では一人だけ相撲を専門的にやっている人が参加していて、個人では彼の圧勝だった。私も個人戦にだけ出場したが、いつものノリでケンケン内股を仕掛けて自分で手をついてしまい負けた。結果的には団体で県大会出場をもぎ取り、「県大会出場」という実績は手に入った。体操服の上からとはいえフンドシを締めたのは今のところこの時が最初で最後である。

夏休み~新人戦

県総体が終わると代替わりである。ついに最上級生となった。
新キャプテンを決める必要があるが、夏の間は2年生が日替わりでキャプテンを務めた。
8月に入ってすぐ、富里中と3日くらい連続で合同練習をした。こちらからしてみればなかなかハードであったと記憶している。
8月の終わりには例によって佐倉市近隣大会があり、今回も2年生の部で準決勝まで進出したものの、柏二中に敗れた。
8月中にはこれまで稽古をつけてもらっていたU氏との決別も生まれた。U氏は以前から佐倉中の練習に来ており、私は1年生末~2年生になる直前あたりから団体レギュラーに固定されたこともあり徐々に稽古をつけてもらうようになっていた。
キッカケは乱取りの際に私が相手を見つけられずにあぶれて休んでおり、同じく相手のいなかったK氏にお願いしに行かなかったことであったと記憶している。結局は顧問に指示を受けて願いしに行ったのだが、その姿勢が気に入らなかったのか、受けてもらえなかった。そこから私は稽古をつけてもらうことが無くなったし、試合の際にもアドバイスをもらうこともなくなった。
当時は自分から行かなかったことに対する後ろめたさがあったが、今になってみるとK氏は中学生相手に対して大人げない対応であったと思う。その場では受け付けなくとも、その後に個別で諭せば済むレベルではないか。少なくともこれまでの関係性を壊すレベルの出来事ではなかった。
とにもかくにもよく分からないすれ違いで師を1人失うことになった。

夏休み最終盤、萌芽杯に出場した。予選リーグを勝ち抜いたチームで決勝トーナメント、という構成だったと思う。予選リーグは勝ち抜いたのか覚えていないがいくつか試合をした後に國學院栃木中と対戦した。全国レベルの強豪なので、まあ負けるんだろうなと思いながら試合は始まった。先鋒のTA氏が案外粘り、有効2個くらいで抑えてきた。そんな試合を見せられると私も簡単に負けるわけにはいかない。それなりに奮起し、ポイント差だったか引き分けだったか覚えていないが、少なくとも技あり以上は取られずに終えることができた。後続は相手側の体格が圧倒的であったこともありサクッと負けてしまったと思う(当時佐倉中の大将は66kg級、のちに大将を務めるU氏でも81kg級だった)。
萌芽杯は通常の試合の後に練習試合もあるのだが、これはTA氏がうまく工作したのと、萌芽杯の開催場所が埼玉の本庄という千葉からは少し遠い場所だったことであまり長居はできない事情もあり、かなり少ない試合数で終えた。

9月は公式戦が少ない(というかほぼない)。新学期始めのごたごたで大会運営を担う先生たちも忙しいからだろうか。銚子の方でやる練習会には昨年同様参加したと思うが詳しくは覚えていない。なんなら1年の時よりも記憶にない。おじいちゃんが中学生の相手をしていてすごいと思った記憶はある。

8月の終わりか9月の始めに新主将にTA氏、副主将に私が就いた。2年生間での投票で決まるのだが、後から聞けば私は顧問のいいなりになりそうだから主将としては不適格だと判断されたとのことだった。

10月は新人戦である。まずは郡大会を勝ち抜かねばならない。団体も個人も決勝に進出すれば文句なしで出場できるが、それ以外は(枠があれば)3位決定戦などの出場権争いをしなければならない。
団体戦は準決勝で富里中に当たる山に入れられたが、その前に2回戦くらいで印西中に敗れたと思う。スコアとしては3-2くらいでそんなに差はなかった。なお、なぜかこの後郡の大会では毎回富里中の山に入れられ、1度も成田西中と当たらなかった。西中の山に入れば前3人で勝って決勝に行けるのに…と思っていた。
印西中に負けたのでその日の午後からは県大会出場をかけた敗者復活戦に臨んだ。1~2試合の後に反対側の山の準決勝で敗れた八街中央中と対戦して勝利し、2年ぶりに男子団体での県大会出場を勝ち取った。
県大会出場権を勝ち取りはしたが、敗者復活戦のもう一つの山を勝ち抜いた学校と順位決定戦をする必要があった。相手はまたしても印西中だった。1日で2度目の対戦である。勝利が絶対必要、というわけでもないので今度は補欠だったTK氏を先鋒に入れ、玉突きで私が中堅に回るよう指示を受けた。
中堅には郡内でもその強さに定評のあったM氏で、午前中の試合で中堅を務めたO氏に勝利していた。その指示を聞いた際に、私は露骨に嫌な表情をしたので、脳天への拳骨と共にそのことを咎められた。結局両校共に午前と同じ配置で対戦し、同じようなスコアで敗れた。なお、この2試合で対戦したMH氏は後に高校の同期となる。
個人戦は振るわず、準々決勝くらいで敗れた。うまくやれば県大会出場も狙える組み合わせだっただけに、もう少しどん欲に行くべきだった。

11月に県大会があり、1回戦の蔵波中には勝利したものの、2回戦で白浜中に惨敗した。白浜中はその後ベスト4まで勝ち残っていた。
対蔵波中での対戦相手はB氏という私と同じく55kg級で、当時県内では少し名の知れた選手であった。当時そんなことも知らずに挑み、なかなか強いななどと思いつつも結局お互い決め手を欠き、引き分けに終わった。試合後にK氏と共に観戦に来ていたM氏という人にB氏について前述の情報をもらい、彼と分けたことを少し褒められた。とはいえ同じ郡のH氏は技ありで退けているし、私も防戦一方というわけでもなかったので、勝てなかったことが少し心残りであった。

11月末~年度末

県大会が終わると学警連大会である。この年は団体戦・個人戦共に順当に優勝した。この年のメダルのデザインはダサかったので何とも言えない気持ちだった。
他にトピックが無いと地区レベルの大会でも全校集会で表彰される。学警連の時期はたいていトピックが無いので壇上に上がって表彰してもらえるのだが、この時珍しく顧問に優勝したことを褒められた。顧問に表立って褒められたのは1年生の初試合後とこの時くらいである。

学警連が終われば東海大浦安の招待試合がある。この年もリーグ戦を行い、1試合目は勝利したが2試合目は三亀が相手で敗れた。
年末には群馬遠征があった。面倒な練習試合三昧の遠征である。
それが終われば例によって大掃除とモチ大会をやって年末年始である。

年始、1/4から稽古始めの予定だったが、顧問の体調不良により1/5から開始となった。当時は休みになったことをとても喜んでいた。
1/5に柔道場にいってみると、顧問がマスクをつけている。なんでも髭を沿った際についた傷口から雑菌が入り、顎周りにフジツボのような腫れが生じたという。当時興味本位で見せてもらったがすぐに見たことを後悔した。

年明け、八街市近隣大会があり、ここで新人戦団体準優勝の大原中と対戦した。私の相手はその中では比較的穴ではあったものの、県準優勝のレギュラーメンバーということもあり、そこそこの強さはあった。決め手を欠き、引き分けに終わった。

しばらくは平穏無事だった。3月になると3年生の送別会があった。
送別会では現役生と3年生の試合を行う。昨年はさすがに3年生相手に敗れたが、今年は勝てる気がしていた。果たして、M氏にもT氏にも勝利をおさめ、現役生チームが勝利した。
3月末にはまた新入生歓迎会の劇の練習が始まった。私は中ボスの役を与えられた。ついに最終学年である。部活の終わりも見えてきていた。


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