高校の思い出(2010~2011)

4月

成田高校に進学した。3月から練習に参加していたので同じく推薦入学の同級生との顔合わせも済んでいた。東庄中出身T氏、小見川中出身J氏、印西中出身M氏の3名が同期入学者だった。てっきり成田なので富里中や西中の出身者が複数名いるものかと思っていたし、特に当時の富里中は県内でも強豪の部類だったので同期入学者の中で自分が最弱であることを覚悟もしていたのだが、拍子抜けしてしまった。この中でならそこそこやれるんじゃないかという感覚と同時に、このメンバーで団体戦を勝ち抜いていけるだろうかという不安も生じた。レギュラーにはなりたいが私がレギュラーを務めるチームに所属していたくはない気持ちもある。

入学式の翌日から稽古が始まった。その日から7月に3年生が引退するまで、私は同じ中学出身のT先輩の舎弟のような状態になった。朝は彼とともに登校し、帰りも彼とともに帰る。彼があれを取ってこいと言えば即座に取ってくる。こう書くと悪しき体育会系のような感じもするがいたって健全な関係で、奢ってもらったりはしても私の金銭や所有物を巻き上げられることはなかった。
入学後しばらくは同級生同士では組まないように指示があったが、4月の中頃にはその禁も解けていたと記憶している。なぜならば、4月のどこかでT氏と立ち技の乱取りをした記憶があるからだ。1回投げられたが私も1度投げ返した。T氏は当初ひょろひょろの見た目で地区も違うし県レベルの実績もない無名の私を完全に侮っていたようで、この一件で見直したらしい。自分の力を示しておくというのはコミュニティで生き残っていくうえで大事なことの一つだ。

4月の終わりごろに関東大会個人戦(無差別)の地区予選が行われた。例年成田高校からは男子全員が参戦していたようだが、この年はT先輩とH先輩のみが参加した。T先輩が優勝し、H先輩は準々決勝だかで負けた。
この大会では試合そのものよりも、初めて書く反省文というものに難儀したことが記憶に残っている。当時成田高校では毎回試合後にレポートの提出をしていたのだが、初めて書く上に試合にも出ていないので何を書いたものかさっぱりであった。同期が全員何とか書きあげているのに私はまっさらのまま提出日を迎えてしまったのだ。主将であるT先輩にどやされ何とか埋めたが、書き方のレクチャーや文章例もないのによくやらせていたものだ。

4月の末か5月の初め頃に頃に部内試合が行われた。同期T氏と3年生A先輩はケガをしていたので寝技のみで、2年生のT先輩と同期のJ氏とは通常形式での試合をした。M氏は同じ階級の私と試合をしていないので多分この時は試合そのものをしていないと思う。
寝技についてはあんまり消耗したくなかったのであっさりと負けて切り上げ、通常の試合の方に注力した。T先輩には過去引き分けたこともあったが、この場は有効を取られて負けた。一度抑え込みを返して逆に抑え込んだことを記憶している。J氏との試合では組み際の大外刈りで技ありを先取し、そのまま逃げ切った。J氏との試合は私のお目付け役である3年生のT先輩とJ氏の監督役である2年生のH先輩との代理戦争のような様相(別に両者の仲が悪いわけではない)になっており、私としては佐倉中の名誉にかけても負けるわけにはいかなかった。
無名のひょろひょろだった私だが、T氏を投げJ氏に勝つことでひとまず同級生の中での立場を確保したのだった。

5月

GWは合宿だったが、追い込むというより関東大会県予選前の調整だったので、お泊り会に近い感覚だった。この時陸上部の施設で寝泊まりしたが、それは最初で最後のことだった。
GW明けに行われた関東大会の県予選は佐原高校に勝利してベスト8進出(関東大会出場決定)という、後から思えばなんともおいしい組み合わせと結果だった。個人戦はT先輩が出場し、2回戦で東海大浦安のA氏に敗れた。
関東大会県予選の翌々週くらいにはインターハイ県予選の地区予選が行われた。私は60kg級にエントリーした。2回勝ち上がったが、準決勝で富里高校の3年生と当たり、敗れた。彼は前年の新人戦も地区では優勝していたようだが、圧倒的な力の差はなかったのでもう少し頑張ればよかったと今になって思う。続く補欠決定戦でも敗れ、4位に終わった。頑張ったとは言われたがもう少し頑張れた試合だった。

6月

その翌々週くらいにはインターハイ県予選があった。私はT先輩の付き人のような状態で、水やタオルを持ってお供をした。1回戦を勝って2回戦は関東大会県予選で対戦し敗れていたA氏であった。彼は神奈川県の強豪相原中出身で、新人戦は1・2年で連覇、IH予選は1・2年で3位(1年時IH予選のみ81kg級、他は90kg級)という県下ではトップオブトップの実力で、今大会でも優勝候補の大本命だった。ただし、奥襟を持たれる弱いという特徴もあり、T先輩は舎弟でかつ左組(A氏も左組だった)の私を使ってひたすら組手の練習をして試合に臨んだ。その結果、彼は見事A氏に指導1差で勝利した。当然T先輩の努力の賜物ではあるが、私が練習に付き合わなければ、更に左組でなければ(当時私以外にチームに左組はいなかった)、彼は勝ち上がれなかっただろう。入賞が確定したところで満足したのか、T先輩は準決勝で敗れた。その時の対戦相手の御母堂が海外出身の方で、独特のイントネーションで息子を応援していたので、しばらくそのモノマネでT先輩をいじった。
関東大会の本戦を挟んで2週後くらいにはIH県予選の団体戦が行われた。ベスト8を掛けた試合で同じ地区の東京学館と当たり、敗れた。ベスト8に入れば新人戦のシード権を得られるので、この敗戦は痛かった。ここでシード権を手放したことの影響はなんと2年後の新人戦にまで影響したのだから罪深いものである。

7月~夏休み

IH県予選が終わると国体予選(体重別選手権)であるが、この年のことはよく覚えていない。IH本戦や金鷲旗に出場するわけでもないので、国体予選が終われば3年生は引退である。新主将には当然の如くH先輩が任命された。

夏休みに入って早々、群馬まで練習試合の遠征に行った。移動中も日中も非常に暑かったことくらいしか覚えていない。宿舎は大広間のような場所に他の学校と共に雑魚寝という、災害時の避難所のような状態であった。

8月に入るとTMS主催の練成会と試合があった。この年と翌年も、TMSの試合の頃は校内合宿中であった。細かいところはあまり覚えていないが、工学院高校の人が強かったように記憶している。
この校内合宿は割かし長く、お盆のOB総会まで続いていた(もしくは途中で一度切り上げて再度校内合宿をしていたか)ような記憶がある。
OB総会というものについて、私は引退した3年生のT先輩にあれこれ吹き込まれており、必要以上にビビり散らかしていた。このOB総会自体は一般社団法人となっている成田高校柔道部のOB会が年に一度活動報告をするための集まりであり、別に怖いものでもなんでもないのだが、問題はこの総会に出席するために多くのOBが練習に参加するのでなかなかハードになることであった。近年の様子は分からないが、当時は卒業後も柔道を現役で続けているOBが多く、なかなかハードな日になっていたのだ。
しかしながら迎えたOB総会当日のことを実はあまりよく覚えていない。私はまだ1年生で、しかもあまり体が大きくなかったので、体格の良いOBに捕まらなかったのかもしれない。もちろんOBがいるのに休んでいると怒られるのでお願いしに行ったとは思うが、他の部員ほど追い込まれた記憶はない。
恐怖の権化のように教え込まれていた先輩も結婚し子どもが生まれたとかでかなり丸くなっており、むしろかなり優しい部類に入っていた。

OB総会の後、佐原高校で練習合宿があった。これもまたよく分からない合宿で、練習試合はなく、近隣地域の高校が集まってひたすら元立ちを各校で交代しつつ回していく形式だった。佐原くらいなら通いでも良かったのではないかと思うが…
この時初めてI氏と乱取りをした。その後乱取りをした記憶が無いのでもしかすると唯一かもしれない。I氏というのは中学校でも高校でも強豪でならした県内では少し有名な人だった。しかし成田高校内では強さそのものよりもその気質で有名であった。というのも彼は後輩に対する暴力や陰湿なイタズラをしていたのである。柔道にかぎらず格闘技では追い込みのため、上位の者が厳しめに下位の者に稽古をつけることがあるが、彼は乱取り中に馬乗りになり後輩を殴るといったようなことまでする人だった。この時は殴られるまではしなかったが、散々にやられ泣きべそをかいた。

佐原に行く前か後かに、西武台高校に合宿に行った。当時西武台高校の監督が大東文化大学の柔道部監督も務めており、大東の学生も交えての合宿だった。西武台高校にはこの先夏と冬に毎回合同練習をすることになる。

夏休みの最終盤、木更津総合高で私学大会が行われた。千葉県の私立高柔道部が殆ど一堂に会す、そこそこレベルの高い大会である。ただこの年の試合結果はよく覚えていない。

9~11月

夏が明けるとしばらくして、東部大会があった。ここでは東京学館・富里を抑えて優勝した。
9月末には平成国際大学の招待試合があり、埼玉の奥地まで行ったことを覚えている。試合は群馬県の高校に負けたのだったと記憶している。またこの時丸山城志郎を見て、さすが全中連覇者はオーラがあるものだなあ、などと思っていた。

10月に入ると今度は新人戦である。個人戦は県大会出場を最低目標にしていたがその手前で敗れた。そののち何とか3位決定戦には勝利して補欠は確保したが監督にはえらく怒られたし、自分の中のショックも大きかった。

11月には新人戦の県大会があるのだが、その前に2年生の修学旅行があった。その間1年生は何もないので練習をしているのだが、その時M氏が珍事件を起こした。
その日、道場で昼食を取っていた部員に、監督が「夕方頃に道場の水道工事が入るのでそのあたりの時間はトイレやシャワーの水が使えない」旨を通達した。その時話を聞いていたのは私とJ氏、それからT氏だった。
午後の授業が終わり、道場に向かい、流れないことは承知しつつ小なので問題ないとトイレに入った。その時私は奥の大便器のドアが閉まっていることに気が付いた。
水が流れないのに、大をしている者がいるのである。それがM氏であった。私も慌てたし、M氏も慌てた。なにせ流そうとしても水が出てこないのである。M氏の大が便器に鎮座し続けることになるのだ。M氏は監督に相談するほかなかった。彼は水が流れないことを知らずに大をしたこと、流せないので大はまだ便器にあることを報告した。監督も入学以来初めて見るような戸惑いの声を上げた。水が流れるようになるまで放置しておくわけにもいかないので師範室から水を持ってきて自力で流した。しばらくそのことをいじりすぎて彼が拗ねたので、我々は水に流すことにした。

2年生が帰ってきてしばらく後に新人戦県大会があり、団体戦は2回戦で東海大浦安と当たり、敗れた。シード権を失った弊害その1である。
個人戦ではH先輩が90kg級で決勝に進出したが、こちらも東海大浦安の選手に敗れた。相手のK氏は体格的には81kgに近い選手で、90kg級に出るために計量ギリギリまで増量のために水や食べ物を書き込んでいたのだそうだ。なんでも自分より大きい体格の相手の方が得意なので一階級上に出ていたのだという。実際彼は同階級入賞者の中では少し体格に劣っていながら、悠々と勝ち上がっており、決勝でもH先輩はあっけなく負けてしまった。

12月~年末年始

12月の上~中旬はテスト期間なので部活が休みである。それが終わり冬休みに入ると同時に合宿に突入する。この年は年内は休みなし、年始3が日は休みというスケジュールだった。
合宿は國學院大學主催の松尾三郎杯から始まる。この大会は強豪校も数多く参加する大会で、私たちは1~2回戦のかませ犬のようなものであった。
この年は東京オリンピック金メダリストの永瀬氏要する長崎日大との対戦であった。当時の時点で彼は高校選手権覇者であり、当代のトップ選手だった。試合の序盤は悪くない流れで進んだように記憶しているが、永瀬氏がH先輩を圧倒的な力で屠ったあたりで大勢が決し、敗戦となった。
試合が終わったその足で埼玉に向かい、またもや西武台高校での合宿が始まった。西武台高校は当時私たちよりも少し上、というような力量で、なかなかに厄介であった。しかしこの合宿ではそんなことよりも忘れられない出来事があった。
合宿は西武台高校の道場に布団を敷いて寝泊まりしており(ちなみに西武台高校の生徒は通い合宿だった)、夜は近くのスーパーで買ってきたお菓子を食べながらおしゃべりや読書など各々過ごしていた。
そこに監督が様子を見にやってきて、私の枕の上に腰かけた(しばらく後には私は彼のケツが乗った後の枕で寝なければいけないのである)。そして彼は私の買ってきた未開封のサツマイモ味のキャラメルに目を付け(彼は甘党だった)、一つ欲しいというので私は開封し一つ寄越した。そして彼はしばらく部員たちと話をしていたのだが、ここで放屁の音が聞こえた。監督が話している最中に放屁するなど言語道断、部員たちは互いに犯人捜しの視線を送った。しかし、この放屁は何を隠そう監督によるものだった。
彼は、私の使う枕に腰かけ、未開封のキャラメルの封を開けさせ、更には枕の上で屁をこいたのである。とんでもない鬼畜の所業だ。同じことを部員がしていたらさすがに先輩でも怒るが、監督相手には泣き寝入りするしかなかった。

そんなこんなで西武台高校での合同練習も終わり、城西国際大学主催の水田三喜男杯に出るため、今度は白子町に向かった。移動中、海が見えたのでしばらく砂浜で遊ぶという謎の時間があった。この時、浜に打ち捨てられていたライトの残骸を監督が気に入り、持ち帰るという更なる謎ムーブがあった。

この年の水田杯は1回戦を突破し、2回戦くらいで東北高校と当たり、敗れた。試合後は研究用に強豪校の試合を録画するなどし、それも終わると大学の食堂で夕食を取ることになった。供されたのはナポリタンだったのだが、この食事は私の人生の中でも3本の指に入るレベルの不味さで、どうやってこんなものを組成したのか聞いてみたくなるレベルの代物だった。しかし、当時食事を残すという選択肢はなく、水でなんとか押し込んだものの、口の中に気持ちの悪い風味が残ったままとなっていた。

事件は唐突に起きた。移動中の車内で隣に座っていた同期のM氏が吐いたのである。どうやら彼は胃腸系のウイルスに罹患していたようなのだ。慌てて車をコンビニに停めて社内の清掃が開始されたのだが、彼の吐しゃ物には当然先ほど食べさせられたこの世で最も邪悪で恐ろしいナポリタンが含まれていた。
そもそもがおよそ人が食べられたものではない代物が、吐しゃ物になっているのである。そこに車酔いも合わさり、私も食べたものを戻すにいたった。
結局M氏の罹患したウイルスが部内で感染拡大し、H先輩とJ氏しか生き残らなかったため、私たちの遠征合宿はここで打ち切りとなった。
合宿打ち切りの翌日は休みとなり、翌々日から練習が再開された。年末年始は夏休みと並んでOBが練習に押し掛けるシーズンである。
しかし、練習に参加できたのはパンデミックを生き残ったH先輩と女子のI先輩にS先輩、それから練習に参加できるくらいまでには復活した私だけであった。なお、H先輩と共に生き残っていたJ氏は遅れて症状が出始め、休んでいた。ともかく女子の先輩が追い込まれることはないので、H先輩と私だけで何とかするしかなかった。そしてその状態は年末いっぱいは続いた。

年が明け、ようやく休みがもらえた。休み明けには他の部員も復活してきた。
このころからしばらく、タンザニアから留学に来た人たちが練習に参加するようになった。彼らは高校近くの順天堂大学を拠点にしているらしく、力量的に大学生よりもちょうどいい私たちと練習するようになったようだ。
1月末ごろには香取市親善大会という個人戦のみのローカルな大会に出場した。私はしばらくタンザニアの留学生からのローキック寄りの足払いを受け続けた結果、この大会とその後の練習会でスネにできていた大きなあざがとうとう爆発し、腫れあがるという事態に発展した。風が吹かなくてもジンジンと痛み、触れようものならメチャクチャ痛むといったような状態である。
しばらくは休むしかなかった。2月は大きな大会もなかったので落ち着いて療養することができた。
2月の末には安房高への遠征がある。これは当時毎年お決まりの行事だった。当時安房高の監督が成田高校の監督と同じく順天堂大学柔道部出身だったのが理由だと思うが、今も毎年行っているのかは不明である。
この安房高は県下でも指折りの伝統校で、柔道ではかつてインターハイを何度も制し、OBには醍醐敏郎氏(講道館柔道十段)、篠巻正利氏、高木長之助氏など往年の伝説的名選手を輩出した名門であった。当時は安定して県ベスト8、うまくいけば4も狙えるという位置にいた。つまり私たちよりは少々程度が上の相手である。
安房高に行く日は朝の集合が早い。9時過ぎの練習開始に間に合わせるために、6時頃に集合して8時半頃に到着である。副顧問が運転してくれているので車内では寝てはいけないという風潮もあったが、さすがに朝早かったためがっつり寝ていた。
いざ練習が始まり、まずは寝技乱取りをしたところで早速練習試合開始の流れになった。面倒だななどと思っていると、監督に足が痛むだろうから(試合は)やめておけという指示が出た。正直なところ試合をできなくもない状態にまでは直っていたのだが、別に無理をする場面でもないので反論せずに試合と立ち技乱取りは見学していた。試合の人数も、タンザニアの留学生が帯同しており足りてはいたからこその指示だったのかもしれない。
この日は帰り道がまた長かった。渋滞にはまり、サービスエリアにも寄れない状態になっていたのだ。この時、留学生たちが腹を空かせていたので持ってきていたジャムコッペパンを分けてよこしたことを覚えている。

2月が終わり、3月になると卒業式と同時にテスト期間に入った。
部活も休みになり、家でテスト勉強をしていた時に東日本大震災が発生した。現代日本では未曾有の大災害であるが、あまりにも大きすぎたために情報も錯綜しており、当時は何が起こったのか、全容をつかむことが困難であった。こうなるともはやテストどころではなく、当然部活もしばらく休みとなった。春休みの合宿も全て中止である。
3月の下旬ごろになってようやく学校と部活が再開された。ただし練習時間は短縮された。
まさかの大災害におののきながらも、私は高校2年生、花も恥じらう17歳の年になった。

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