少年野球の記憶(②2005)

★2005年正月~夏まで:レギュラーに定着、ピッチャーとしてプチブレイク

2005年から新しく監督に就任したI氏(2004年とは別のI氏)は理論派の人だった。基本的なものから、本で読んだのか分からないが、これまでにしてこなかったような練習までメニューが様々に増えた。練習場所の小学校近くのマラソンコースを使用しての走り込みやペットボトルで作ったお手製ダンベルで基礎体力の向上が図られた。ガムテープボールでのバッティング練習もこの年始まったと記憶している。

代替わりはしたものの、前年の時点で6年生1人、5年生3人(その上新体制ではIさんが抜けて2人でスタート)であったため、私の同級生が主力の一角となっており、2005年は5年生の強化無しでは勝つことなど到底考えられない状態であった。

I氏は新体制でのローテーションの一角として左投げである私に目を付け、ピッチャーの練習を指示した。練習開始当初はマンツーマンで指導され、ああでもないこうでもないと言われ面倒であったものの、実際に試合で投げて成果が出始めるとなかなか楽しくなってきた。正直、ピッチャーとしてのブレイクがなければ6年生までですら野球を続ける気持ちにならなかっただろう。そして3年間プレーした少年野球の中で一番楽しい年でもあった。

ピッチャーデビューは確かエンジョイズというユーカリが丘の方のチームと印南小で行った練習試合だった。初めて迎えた打者にはデッドボールを与えてしまった。その後の展開は覚えていないが、そんなに悪い投球はしなかったと思う。

しばらくは試合中盤からのリリーフで起用された。重用され始めたのがどのタイミングであったか定かではないが、佐倉ウィングスとの試合で4回から登板、何度か危機を迎えたが7回まで無失点で抑えたことは一つピッチャーとしての評価を上げる要因となった。

★2005年夏:オールスター初出場、背番号5をもらう

その他細々とした試合での実績・勝利への貢献もあり、佐倉少年野球リーグ主催の少年野球チームで行うオールスター戦に6年生2人(※その年の6年生は2人だけ)や同級生でよくバッテリーを組んでいたT氏と出してもらえることになった。基本的に各チームから数名がチーム内での推薦で出るのでリーグからの評価ではないのだが、私よりも実力のある同級生を差し置いて出してもらえるのだから、非常にうれしかったのを覚えている。しかも開催は小学校近くの岩名第一球場(現:長嶋茂雄記念岩名球場)であるので、チームメイトも応援に来てくれる。

また同じタイミングでT氏が背番号2、私が5番をもらえることになり、それもまた誇らしい気持であった。前年は10番台後半の番号を付けていたので、頑張りが報われた気持ちになった。

オールスターは10チームくらいからそれぞれ数名を出すので、1チームあたりの人数は20人はいたかと思う。その上試合は7回までなので全員を出場させるにはそこそこの頻度で選手を入れ替える必要がある。なので出番はそう多くない。守備はともかくピッチャーなら1回投げられればいい方で、打席も1回くらいしか回ってこない。親も友達もこぞって応援には来てくれるが、活躍を見せられる場面はそう多くないのである。

結果としては、ピッチャーでイニング途中から投げて無失点、バッターとしては1打数1安打1打点だった。なんとか選出の期待には応えられた。父は褒めてくれたし、普段は食生活に厳しい母も帰宅後にカップ麺を買って食べることを許してくれた。

夏までの記憶はそこそこにあるが、秋~冬の記憶があまりない。試合には出ていたが、大して印象に残るシーンが無い。新人戦として5年生以下が中心の試合に出ていたと思う。新人戦での監督は同級生F氏の父で、I氏とは少し毛色が違い、精神論寄りの人であった。同級生の父としては尊敬できる人であるが、今思えば監督としてはあまり評価できない人である。

冬になると、また代替わりである。ついに6年生となり、名実共にチームの中心となった。監督には新人戦で指揮を執ったF氏が就任することとなった。

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