高校の思い出(2011~2012)

4~5月

この年は苦難の連続だった。
3月に発生した東日本大震災の直接的な影響からは回復しつつあったものの、世の中的にはイベントの中止や短縮といったような動きが続いていた。
その中で、関東大会やインターハイ予選といったような試合も参加チームや人数を制限し、短縮する方向に動いた。

関東大会予選

関東大会は個人こそ昨年と同じ代表2人だったものの、団体は元々は地区予選を行っていなかったのだが、この年に限っては地区予選が行われることになった。とはいえ昨秋の東部大会を制していることもあり、勝ち抜くことは不可能ではなかったのだが、思わぬミスや環境の変化が続き、団体は地区予選敗退の憂き目にあった。この時の原因は大きく2つ、①新戦力による陣容の変化②計算外の敗戦である。
①は東京学館に即戦力かつポイントゲッターとしても通用する1年生が入ったことを指す。純粋に昨秋よりも団体メンバーの戦力に変化が生じていたため、仕方のない部分はある。
②は富里高校で、こちらは最悪落としてもよい相手もいるものの、取らなければいけないところで逆に取られてしまい、敗戦に至った。この試合の戦犯は先鋒を務めた3年生のT氏である。彼は相変わらずさぼり癖や言い訳がひどく、中学時代の頃の方が強かったと言えるほどのありさまだった。直前の部内試合でも若干試合を優勢に進めながらふとしたところから私に抑え込まれ敗戦していた。その時は負けたわけじゃない、などと言っていたが、どんなに試合を支配していようと負けは負けだ。試合に負けるやつが弱いのである。
この2校に敗れたことで団体での県予選出場は絶望的となり、その2試合共に敗れたT氏に代わって私が敗戦処理ともいうべき残り3試合をこなした。

4月の終わりか5月の頭くらいに、土気高校が来た。当時土気高校は指導力に定評のある先生を慕って県下でもそこそこのメンバーが集っていた。当時の成田高校の状況からすると少し上の相手だった。練習試合も行われ私は2試合に出場し、1敗1分だった。1試合目は巴投げで完全に不意を突かれてしまった。2試合目は同じ階級の3年生で、私よりやや力はあったが引き分けた。監督は何を勘違いしたのかこの相手を土気高校の団体レギュラーで66kg級でも県上位レベルだと認識しており(実際には補欠くらいだし個人は甘く見てもベスト8レベル)、引き分けに押さえてきたことに大喜びだった。その後の元立ちはひたすら成田高校の生徒が立たされ土気の生徒があたりに行く形式で、向こうはとにかく人が多く休むこともできるがこちらは休まず立たされ続けるのでとんでもなく疲れたことを覚えている。

もう一つ4月のあたまくらいだったかに千葉商が練習に来た。こちらは公式というより有志による非公式な出稽古に近く、千葉商側は全員が来たわけじゃなかったし、先生もいなかったと思う。千葉商に3年生に成田高校の監督の息子がおり(本当は成田に来るはずが成績不良でダメになったらしい)、そのこともあってのイベントだった。なので特に練習試合をするでもなく、普通に乱取りをしたりおしゃべりをして終わった。

GWは校内合宿をしたがそんなにトピックもなく終わった。
GW明けは関東大会の県予選であるが、男子で唯一出場していたH先輩は私が入学以降見てきた中では一番の低調で、1回戦こそ僅差で勝利したものの、2回戦で3階級も下の相手に敗れた。2年目の関東大会はあっけなく終わった。

IH予選

関東大会に倣い、IH予選も地区予選から行われることになった。先の惨敗を受けてT氏は団体戦メンバーから更迭され代わりに私が入ることになった。
この時の布陣は先鋒T氏(同期)・次鋒私・中堅N氏(この年の新入生)・副将H先輩・大将T先輩であった。
先に敗れた2校のうち、今回は先に富里高校と当たった。前回3年生のT氏が先鋒戦で敗れたことがチームの敗因でもあったのだが、まさかの今回もT氏が敗れた。途中まで優勢だったのが、一発で逆転されてしまったのである。
そこからの展開は前回と同じで、取れるところは取り、取られる想定のところは取られた。結局スコアは前回と同じで敗れた。先鋒戦が全てだったのだ。
東京学館戦は、やはり先鋒戦は相手の有力な1年生相手に敗れ、私の番が回ってきた。チームの勝利を考える上では私が勝つことは大前提だった。
相手はこれまた1年生で、身長はそう大きくないものの体重は100kg前後、昨年の中学総体団体千葉県予選準優勝チームでレギュラーを張り、個人戦90超級でも県大会上位入賞歴があるそこそこの選手、だった。
しかし、彼は恵まれた体格を生かす術を知らなかった。66kg級の私としては5階級も上の相手をどう攻略したものかと思ったが、組んでしばらくでこの試合をモノにするのはそう難しくもないと気づいた。
きっかけは組手の稚拙さである。私も相手も左組の相四つだったので、私は一旦右の釣り手をもった後、両手で相手の左の釣り手を落としてから通常の左の組手に持ち直す(これによって相手は釣り手を持てず、自分は釣り手引き手両方を持てる)という相四つの場合の定番手段を用いた。彼は相手と自分が相四つだと分からないのか、相四つという概念を知らないのか、左手で釣り手を取りに来ては落とされるということを繰り返していた。中学ではパワーとフィジカルで優っていればある程度のところまで行けたのだろうが、高校ではそうはいかない。挙句、彼は私の背負いを真正面から受け止め、技ありを献上してしまった。普段全く背負い投げなどしない私レベルの技を食らってしまったのである。途中、一瞬抑え込まれもしたが、最終的にはこの技ありと指導2のリードを保って試合を終えた。先鋒戦の一本には及ばないがポイントを取り返してきたのである。
その後、前回敗れた中堅戦で一本を取り返し、リードを奪い返した。副将戦は引き分けで、勝負は大将戦にまでもつれ込んだ。成田の大将は60kg級のT先輩、対する学館の大将は100kg超級のS氏である。最低限一本さえ取られなければ引き分け、有効ならいくつ取られても勝利という状況ではあるが、両極端な体格差や力量を総合するに、形勢は厳しいものであった。
大将戦が始まるやいなや相手は猛然と襲い掛かった。なにせ時間内に一本を取らなければ敗戦なのである。のんびりしている暇はない。しかしT先輩もやられるわけにはいかない、途中抑え込まれもしたが、なんとか有効3~4個に押さえて試合を終えた。この年一番手に汗握った試合であった。とにもかくにも東京学館にはリベンジすることができたのだ。
しかしながら、この3校で互いに勝利・敗戦があった(富里は成田に勝ち、成田は学館に勝ち、学館は富里に勝った)ので、取ったポイント数で県大会出場校を決めることになった。その結果、成田は予選敗退となった。全ては富里との先鋒戦で決まってしまったのだ。

この試合後だったと思うが、主将であるH先輩が練習中にとてつもなくふさぎ込む一幕があった。彼は成田高校に何人かの選手を送り込んできた一族の出で、普段おちゃらけたりすることはあるものの、心の底には成田高校柔道部の一員であることに種の誇りを持っていたようだった。お兄さんは成田高校が当時最後に県大会で団体決勝まで進んだ時の中心メンバーだったし、その背中を見ていた影響もあるのだろう。そんな人が自分が主将の代に県大会にすら勝ち進めなかったのであるから当然である。その事実に加えて、さほどショックを受けていないように見える後輩たちに腹が立ったのだろう。涙を流し、部室に引っ込んでしまった。私個人としてはさすがに自らの態度を恥じるほかなかった。

6~7月(夏休み前)

脱臼

H先輩の件があって、さすがに反省した私は、以前よりも意欲的に練習に取り組むようになった。そんな気合が入っている時こそ魔が迫っているもので6月末、私は乱取り中に投げられそうになった際に手をついてしまい、利き腕である左腕を脱臼した。これまで小さなケガこそすれ、長期離脱につながるようなケガはしてこなかった私にはショックの大きい事件だった。
すぐさま病院…ではなく接骨院に運び込まれた。今思えばとりあえず救急で病院にでも連れて行ってほしかったが、脱臼自体は監督に入れてもらっていたのと、病院では待たされる可能性もあるという判断だったのかもしれない。
運び込まれた接骨院はOBでコーチのK先生の中学の同級生が経営しているとかで、以前より柔道部員が怪我をするとまずここを紹介されていた。しかしながら部員間ではこの接骨院はヤブだというのが統一見解だった。というのも足の故障で少し前に通っていた同期のJ氏は何度通っても一向によくならなかったし、OBでは通ってもよくならないので他の整形外科にかかったところ、レントゲン写真で骨折していたことが発覚したという。ただ先述の通りK先生の同級生ということで表立って通院を拒否できないという状態であった。

ひとまず接骨院に行って骨がきちんと入っていることを確認してもらうのと、固定具を付けてもらうことはした(ヤブでもそれくらいはできた)。
怪我直後で自力で帰るのもきついだろうということで監督に自宅まで送ってもらったが、疲れから来る眠気と、監督の少し荒い運転(停止はだいたい急ブレーキだった)に翻弄されながらその日は帰った。
翌日、再びヤブ接骨院に行き、レントゲンを撮ってこいと言われ紹介状をもらって地元の佐倉整形外科に向かった。これまでかかったことが無かったので知らなかったが、当時佐倉整形は手や腕の診療に関しては千葉県でも随一の評判であったらしい(今もそうなのかは知らない)。
レントゲン写真を撮るだけ、くらいの軽い気持ちの診察で担当医師からすぐに手術しましょうという勧告を受けた。母は戸惑っていたが私は受けた方が治りが確実、かつ自然治癒と比較しても早いという言葉を聞いて前向きな返事をした。手術を受けることを監督に話をしたところ猛反対にあった。監督は脱臼くらい自然治癒で大丈夫(それくらいで高校生の腕にメスを入れるなんて、)という考えを持っていたのに加え、信頼も実績もないヤブ接骨院になぜか全幅の信頼を置いており、治療の主体が移ることに難色を示した。
これだけ大きなケガをしたのは親も私も親戚まで含めても初めての経験で、担当医師と監督の板挟みにあった私たちはひとまず小学校からかかりつけだった上野整形外科にセカンドオピニオンを求めた。なお、セカンドオピニオンを求めることについては佐倉整形の担当医師が険しい顔をした。自分の腕に絶対の自信があるようで、セカンドオピニオンなど怪しからん、無意味だということらしい。
上野整形では自然治癒という選択肢も間違いではないが手術よりも確実性は落ちること、佐倉整形は対応した症例数も多くあるので手術~リハビリも信頼が置けることなどから手術してもいいんじゃないかという意見だった。
併せてH先輩の親御さん(出身中学は違うが同じ佐倉市在住ということで何かと親切にしてもらっていた)が接骨院はヤブということと、佐倉整形にかかってよかったことなどを聞き、結局手術することにした。
今思えば手術の可否うんぬんよりもヤブ接骨院にかかり続けるか佐倉整形で治療するか、ということの方が大きな選択だった。結果論にはなるが後者を選んだからケガから約2か月後には競技に復帰することができたと思う。

というわけで腕を手術した。当然入院している間は部活も学校も休まねばならない。勉強していた記憶もないので、時期的にテストはなかったのだと思う。入院中に監督が見舞いに来た。面会時間ではなかったが、特に気にせず入り込んできたようだった。あまりに堂々としていたからか誰にも注意されなかった。この時監督が持って来た黒平まんじゅうはその後我が家でブレイクした。

手術後、2~3日ほどで退院となった。退院時に駐車場で迎えを待っていると、謎のオジさんに謎の注意を受けた。よく分からないが、私が病院を勝手に抜け出した不良少年にでも見えたようだ。帰宅すると、H先輩のお父さんが花を持ってきてくれた。何かの式典以外で人から花をもらったのは初めてだった。

術後3週間程度で抜糸をした。今となっては詳しく覚えていないが、痛みもなくササっと取れた。早速その日からリハビリ開始となった。
リハビリの前に腕をほぐすためにお湯に10分程度浸けるのだが、抜糸まではタオルで拭く程度だったので、笑ってしまう量の垢が出てきた。
リハビリは基本的に腕の曲げ伸ばしを段階的に進めていくことになるのだが、脱臼してから都合1ヶ月ほど固定された状態だったので、少し伸ばそうとするだけで(初期段階では自力ではできないので療法士さんにやってもらう)激痛が走った。これを2~3か月はやることになる、と言われ気が滅入った。

私がケガをしてあれこれ対応している最中、国体メンバーの県予選があり、H先輩とT先輩が出場した。ここでT先輩が思わぬ奇跡を起こした。
T先輩は2回戦で習志野高のA氏と対戦した。A氏は直前のIH予選で準優勝の強豪である。やはりA氏優位で試合は進んだが、中盤くらいでT先輩の背負い投げが絶妙なタイミングでハマり技ありとなった。結局そのまま逃げ切りまさかの金星となった。結局準決勝で敗れたものの3位入賞となった。
H先輩は無差別級で優勝を目標に臨み、決勝まで進んだ。相手は東京学館のS氏である。同じ地区であり、互いにチームのエースであるため、何度も試合をしており拮抗した力量であったのだが、決着はあっけなく着いた。足を取ったという判定でH先輩の反則負けである。今ならビデオ確認ものであろうが、当時はジュリーはいたかもしれないがビデオはなかったので、そのまま終わった。なんともあっけなく、すっきりしない幕切れであった。

H先輩の試合は国体メンバーを選出するという目的上、両選手の実力を見極める上でははっきりしなさすぎる試合であったため、後日八千代高校で再試合を行うことになった。
なお、国体メンバーは国体予選の結果によるところもあったし、3月の全国選手権の結果やそれまでの実績など、予選の結果に関係なくすでに内々で決まっているような場合もあった(翌年のベイカーやウルフは国体予選には出ていなかったと思う)。この年は全国大会での上位進出が確実というような絶対的な選手がいたわけではないからか、国体予選がそのままメンバーとなっていた。
当日、73kg級の試合も組まれていた。こちらの方は東海大浦安のA氏と千葉商業のY氏だった。千葉商の方が新人戦・インターハイ予選を制していたが、A氏はその前年、2年生時にインターハイ予選を制していた。直近の実績で言えば前者だが、国体予選ではY氏はA氏と対戦する前に敗退(棄権?)しており、直接対決の場が無かったためこの試合がくまれたようだった。結局この試合で勝利を収めたA氏が選出された。

続いてH先輩の試合が始まった。お互いをある程度知っているので、動きは抑えめである。試合中、何度かポイントになりそうな場面はあったものの、結局お互い決め手に欠き、判定でH先輩が勝利した。国体選手になったのである。試合後、

主将選出

7月の3週目、明日から夏休みに入るという日、3年生最後の練習終わりの整列時に次期主将(と副主将)の指名があった(当時は毎年このタイミングだった)。3年生の談合で決めているのだが、当時は部員数が少なく、その上候補者は絞られていた。私か、J氏である。
軽量・重量などで代表者を立てるレベルの大所帯ならともかく、並みの柔道部の主将選定は大体似たような傾向になる。主将はレギュラーとして安定して団体戦に出て、できれば勝率がいい人の方がいい。また、生活面でも素行・態度に問題が無い方がいい(成田高校はそもそも素行が悪い人を勧誘しない傾向にはあるが)。
その点を踏まえてみると、T氏はトラブルメーカー、M氏はレギュラーではない。J氏は素行の問題はないし、1年生の頃は団体戦メンバーだった(後輩のN氏が抜擢されたので2年生の前半は補欠だった)。新体制でもレギュラーに入ることは確実だった。ただ、私も特に素行に問題がなく、新体制では復帰すれば団体メンバーには入れそうだし、直近の試合では先発メンバーで団体戦に出場していた。なりたくはなかったが、私の方が選ばれる可能性が比較的高かった。
結局私が主将に指名され、J氏が副主将になった。T氏は体操係(怪我前までは私が体操係だった)である。M氏はノージョブだ。
主将になったこと自体はいい経験になったが、当時リハビリをしている状態(=通常練習に参加できないという状態)から考えるあまりよいことではなかった。
主将になり、通常練習の裏で一人で筋トレをしていることが許されず、道場で声を出すように監督から言われ、日がな一日療法士から言われたリハビリ動作をしつつ、声を出すだけの日が多くなった。合宿中には夜まで主将としてのスケジュールを取り仕切る役割があり、日中にできない分を補うトレーニングをする時間が全く確保できなかった。この期間のトレーニング不足はこの年の秋の新人戦惨敗の主要因だと言える。

夏休み

7月下旬に、H先輩の親御さんが発起人となり、茨城への謎の観光旅行が催された。なお、翌年も一瞬企画されかけたが、受験勉強に打ち込みたい私とM氏で強硬に反対し立ち消えとなった。この年以降実施されたのかは知らない。旅行自体は楽しく、夜は某番組の男塾芸人を見た。

謎旅行が終わり、7月末~8月上旬で1回目の校内合宿が行われた。私はリハビリにも通いつつ、道場で声出しをしたり、合宿のスケジュール進行をしていた。主将としての仕事は分からないことやこれまで気づかなかったようなことで叱責されることも多く、常に気を張る必要があるの非常に疲れるものだった。これで通常練習もしていたら疲労で病んでいたかもしれない。
この合宿中、TMS主催の練習会+大会があった。大会の結果はよく覚えていないが芳しくなかったと思う。練習会の方もほとんど記憶にないが、千葉経済高の先生が後輩H氏に敗れた生徒を公衆の面前で強く殴打していたことだけは強烈に覚えている。まさかこの1件を発端に卒論を書くことになるとは思わなかったが…

2回目の夏合宿はそれからしばらく、8月の中頃だったと記憶している。正確に1回目と2回目の境目を覚えていないが、OB総会の日は基本校内合宿中なので、多分この年もOB総会を最終日とした校内合宿があったと思う。
ここは本当に記憶にない。

3回目の夏合宿は西武台高校への遠征・合同練習という形式で行われた。
西武台高校に着いたのち、筋トレをしようと器具を借りに行ったところ監督に叱責され、またもや道場での声出しを命じられた。主将という立場上仕方がないが選手の育成という面ではまるで意味のない動きであった。
この時の合宿もあまり印象に残っていない。一日声を出しているだけなのだから残りようもない。
たしかこの合宿の帰途にH先輩が出場する国体関東ブロック予選を見に行った。
今でこそ予選実施時には通過は当たり前、というような強豪になっている千葉県だが、当時は苦戦しており、どちらかと言えば下の順位となっていた(翌年は一転、ベイカー・ウルフらの活躍もあり本戦で優勝している)。
この年は正確な結果は覚えていないが、リーグ戦の後にプレーオフに回り、結局予選敗退だった。

8月の終わり、私学大会が木更津総合高であった。細かい結果はあまり記憶にないが、リーグ戦2種(A,B)のうち、ランクの低いBクラスでの参加になったことに屈辱感があったことは覚えている。監督がそのように申し込んだのだろうが、自チームの監督がBクラスが妥当と認識している事実にふがいなさを感じた。千葉敬愛高を下してBクラスでの優勝はしたが気持ちは晴れなかった。

9~10月

9月に入ると教育実習でOBの国士舘大生のK先輩がやってきた。9月いっぱいはK先輩がメインとなって練習メニューの決定をしていた。国士舘仕込みの全国上位レベルのハードな練習となったのだ。全国上位を目指す同年代などは当たり前のようにこなしているのだろうが、そんな大層な目標も気力もない田舎の呑気な高校生にはきつかった。
9月の試合と言えば東部地区大会である。範囲は印旛・香取・東総の3地区で、中・高の試合があった(小学生もいたかもしれない)。この試合で私はケガからの復帰を果たした。とはいえ本調子とはいかない。練習も2か月ほど休んでいたうえにろくに補強運動もできていないのである。
前年度の優勝校ということで選手宣誓をさせられた。中学生か小学生と共同だが、当日のしかも直前にいわれて分担などできようもない。しかたなく私一人で言い切り、もう一人の方は手を挙げて突っ立っているだけであった。試合は予選リーグは通過したが、決勝トーナメントで敗れた。

しばらくして新人戦の個人地区予選があった。この時には停電騒ぎもなくなり、団体戦は地区予選無しになっていた。個人戦は順当に勝ち上がり、決勝では敗れたものの準優勝で県大会に進むことになった。この時は思いもしなかったが、これが最初で最後の個人戦県大会の出場になった。
10・11月は他にも試合があったと思うのだがイマイチ思い出せない。

11月~年末年始~春休み

11月末に新人戦県大会があったが、個人・団体共に惨敗だった。4~6月の惨憺たる結果から成長できておらず、あまりにもふがいなく、消え入りたい気持であった。試合後にはOBで外部コーチのK先生に詰められた。試合の結果でK先生に詰められたのはこの時限りである。

新人戦の結果は悲惨なものであったが、そこから年明け1月末ごろまではもっと悲惨だった。國學院大學の招待試合も水田三喜男杯も1回戦負け、水田杯後の練習試合も本当に手ごたえ無く敗れた。出口が見えずただこなしているだけの日々であった。年明け、1月末には佐原で香取市親善大会があったが、ここでも調子が上がらずなんてこともない相手に準決勝で負けた。

2月に入ると、千葉地区親善大会に出ることを通達された。大会自体はそこそこの歴史があるが、成田高校としてはその年が初出場となる大会だった。その後も出ているのかは分からない。
この時も試合前日までは個人的には調子が上向いているとはいいがたかった。この週はこの大会の翌日には安房高行が予定されており、少しハードなスケジュールだったこともある。併せて、その頃から順天堂大学に出稽古に行くことが増え始めた。高校生でも大学生相手に渡り合う者もいるが、私はそんなレベルにはなく、ただひたすら組んでは投げられ、の繰り返しだった。しかも大学の稽古では乱取りの1本あたりの時間もセット数もボリューミーで、普段4分×10本程度で回しているところ、大学では5~6分×15本~20本は当たり前だった。行き始めた初期は本当に行くのが鬱だし、翌日は疲労がひどかった。加えてついに右耳に血が溜まり始めて柔道耳となり、血が固まっていないのもあってひどく傷んだ。高校の練習時には耳のガードを付けていたのだが、大学に行くときには学生に集中攻撃を受けないようにあえて付けずに練習に臨んでいたのだ。本当に気分が下がっていた時期だった。

千葉地区親善大会はグループリーグ+決勝トーナメントの形式だった。その時の組み合わせは市立柏A(同一校複数チームでの参加が可能だった)、大網、安孫子二階堂(当時はまだ全然強くなかった)、市立船橋Cだったと記憶している。1位のみが勝ち抜けられることになっており、このグループでは新人戦の結果を見ても市立柏Aが勝ち抜くだろうと思われたし、実際そうなった。
初戦は市立柏だった。チームとしても個人としても正直分が悪かったが、逆にここで私は開き直れることができた。相手は81kg級で、新人戦の個人戦では後輩のN氏に敗れていたが、固定のレギュラー格ではあった。試合が始まると暴君OBのI氏に教えてもらったケンカ四つの組手で相手と距離を取りつつ、朽ち木倒しを試みた。相手は不意を突かれ、倒れこんだ。体の側面が着いた見えたが結局ポイントはなかった。その一発で自信がつき、その後も距離を取りつつ技を仕掛け続けた。途中抑え込まれそうになる一幕もあったものの、全体として私が試合をコントロールできた。結局引き分けになったが、それまでとにかく負けに負け続けていたので、この試合での比較的成功体験は精神的に大きなプラスとなった。試合自体はチームの敗戦となってしまったが。
ここで波に乗り、残りの試合は全て一本勝ちを収めることができた。

翌日は安房高への出稽古である。とにかく遠いので朝が早いし(真冬なので寒い)、ただでさえ人数が少ないところに加えて後輩のH氏はケガで離脱、同期のT氏は身内の結婚式とかで千葉地区親善もこの日も休んでいて人数の少なさに拍車がかかっていた。
安房高に着くと更にテンションが下がることが発覚した。インナーを忘れたのだ。ということはインナーなしで練習+練習試合をこなさなければならない。たるい。練習試合は避けられないが、おそらく私の試合相手はO氏であることもテンションが下がる一因だった。
安房高は成田高校よりも部員数が多かったので、こちらの陣容に合わせて向こうが相手を選定することになる。安房高の先生は監督の大学の後輩なのであまり失礼な選定はせず、一応73kg級で県新人戦3位入賞しているO氏を出してくるだろう。体格的に見合うのは私一人である。
このO氏は夏の順柔杯で同期のT氏が2回試合をして1勝1分の相手であった。このうち1試合で道場の黒板に突っ込み粉まみれになったことを二人の笑いの種にしていたのだが、ここで私がO氏に敗れるようなことがあればT氏の面倒なイジりが発生する。
加えて面倒なことに、O氏に勝つとその後の元立ち稽古でO氏はムキになって私に突っかかってくるだろう。柔道のあるあるだが、練習試合後に負けた相手にお願いしに行けと監督やコーチも煽り立てる。組み合うのは別にいいが、こういった場合、投げてリベンジするまで何度も組み合わされことも多々あり、辟易する。なので穏当なところとして引き分けにしておけば、イジリも元立ちでの面倒ごとも避けられるという算段であった。
準備体操、寝技乱取りに続いてついに練習時間タイムである。予想通り、O氏と私がマッチアップされた。ここで一応は格上であるO氏と引き分けるため、私は狡猾にも(?)O氏に見せつけるように後輩のK氏と右組で打ち込みをした。なおO氏は左組である。私は県内でも無名の人間だし、過去にO氏と試合をしたことはなかったので彼は私が右組であると素直に思ったようだ。
試合が始まると、私は右で組んでから、O氏の釣り手を落として左に持ち替えた。O氏は若干困惑していたようだった。そりゃ右だと思って試合に入り、初手でも右の襟をつかんできた相手が急に左に持ち替えてくるのだから少しは混乱もするだろう。このちょこざいな作戦でしばらくは悪くない展開で試合が進んだ。しかし、しばらくするとさすがに相手が本当は左組であると理解したのか、左組に対する動きになってきたので、今度は私が苦戦を強いられるようになった。そんなこんなで残り30秒程度のところまできて、私が内股を仕掛け、O氏がそれをすくい投げで返そうとしてもつれたところ、どうなったのかは分からないが私が投げたようで、一本の判定となった。勝ってしまった、面倒だなというのが率直な感想だった。
こちら側のメンバーが少なく代えがいないのと、その後の元立ち稽古に時間を使うため、練習試合は1回で終わりとなった。元立ちの時にやはりO氏がやってきた。面倒だったので普通に乱取りをしつつ、一回くらいは試合だったらポイントでも入りそうな投げを受けた。投げられてあげる必要はないが、結局は練習なので無理に耐える必要もない。

2月の中頃だったかに初めて耳の血を抜いた。担任の先生に耳の血を抜きに行くので午前中休むことを告げると公欠にしてくれた。いい先生である。
予防接種などでも行く地元の個人病院に行ったのだが、耳の血を抜くのまでやってくれるとはおもわなかった。抜いた血を見せてくれたのだが、黄色い液体とどす黒い血が混ざりあった何とも言えない色をしていた。その時点で耳も結構大きく腫れていたので、血もそこそこの量となっていた。ひとまずは耳の腫れも引っ込んだ。

安房高遠征が終わったのち、春休みの関東親善大会までは特に大会などはなく、校内練習が続いた。この年は校舎の建て替えの影響により例年よりもテストも春休み開始も前倒しになった。春休みの終わり自体は例年同様4月になるので休みが長かったのだ。部活に入っていないか、もしくは休みに活動をしないような緩い部活所属なら小躍りするような嬉しさもあるだろうが、学校が休みと練習日がほぼイコールな部活にとっては苦しい時期が長くなるだけである。
春休みの間、国士舘大学をこの春に卒業するK先輩が毎日のようにやってきた指導をしてくれた。2月下旬から3月いっぱいまでほぼずっとである。卒業旅行とかバイトとかしなくてよかったんだろうか。前述の通りこの頃高校での練習時は耳にガードを付けていたのだが、K先輩との寝技乱取りで耳に強い圧力がかかり、固まり始めていた耳が音を立てて割れ、とてつもない激痛が走った。周りからは聞こえないだろうが私にははっきり聞こえる音でバキバキっと耳が割れるのである。これは精神的にもきつかった。

3月には3年生の送別会と卒業式があった。前年は震災の影響で中止となっていたので、現役生として送別会をやったのはこの時きりである。
卒業式の日は、式が終わったら3年生はどうせ道場に挨拶に来るし、現役生としては式には出席してもしなくてもどっちでもいいようなものなので、式には出ず2度目の血抜きに行った。この時もまた担任の先生が公欠にしてくれた。いい先生である。この後、耳は本格的に固まっていった。

3月は相変わらず順天堂大学に通う日々が続いた。大学生もまた来たのか、という感じだった。合間に千葉商に出稽古に行ったり、全国高校選手権を見に行ったりした。全国高校選手権のあと、順大出身の監督が率いる高校が順大に来ていたことがあり、大学生を含めた合同練習の後に練習試合があった。参加校は浜松西(だったと思うが曖昧)・小牛田農林・新潟工業・萩にうちを含めた5校だった。
浜松西・小牛田農林・新潟工業との試合はそんなに手間取らずに勝った。
今でも謎なのは萩高校である。この時の相手のメンバーは60~73の軽量級が中心で、私は全国選手権73kg級山口代表だという人が相手だった。普段は66kg級の選手だそうだ(当時選手権は60,73,81,90,無差別という階級区分で、66の選手は73で出なければいけなかった)。その前の練習では彼とは組まなかったが、60の山口代表の人や73の山口2位の人とは組み、投げられはしなかったがそこそこ強いことは分かっていた。66ながら73の1位と戦って本戦に出ているし、本戦では一回戦負けとはいえ私としては格上なので苦戦することを予想していた。
試合が始まると、確かに組む力は強いと感じたが、無気力な印象も受けた。途中で寝技に入り、私がひっくり返して抑え込んだのだが、逃げようとするそぶりを見せない。怪我でもしたのかと思いつつ、相手からのアピールなどもないので抑え込みを解くわけにもいかず、そのまま抑え込み、一本勝ちとなった。試合後に体に何か異常があるような感じもなかったし、本当に謎である。
3月末には関東親善柔道大会があった。この大会は練習試合をひたすらおこなう練成会のようなもので大きく2種類あり、勝浦の日本武道館研修センターで行われるハイレベル版(国士舘とか相模とかそういうレベルの学校が参加する)と、天台の千葉県武道館で行われるスダンダード版があり、私たちは後者に参加した。2日間の日程でそれぞれ少なくとも10試合前後は練習試合を行う、ぼちぼちハードなものである。千葉地区親善大会から引き続いて私は好調が続いており、敗戦は1度きりでそれも有効1つのみ、その他は基本勝つか分けるかだった。
この時は4月から入学する新1年生も参加していた。彼らは私の代が卒業した後の成田高校再興の中心となってくれた代である。この時から試合前に彼らに背中をたたかれるようになり、そういった習慣が無かったので当初はなれなかったが、次第に勇気が出るようになった。

そんなこんなで1年が終わり、遂に最終学年に入った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?