少年野球の記憶(①2004)

過去の記憶について今書かなければ数年後にはいよいよ忘れてしまうと思うので、まずは初めてスポーツチームというものに加入することとなった少年野球時代を書き記す。

★2004年夏前~12月:少年野球チームに入る、当然控え


2004年の3学期に山武町(当時)から佐倉市に引っ越す。
当然そこからしばらく学校生活を送っていたはずであるがもう記憶にない。
担任は大体の時間がビデオを見せてほったらかしという、子どもからしてみれば良いが他の先生や親目線で言えばダメダメな先生であった。

野球そのものは小さい頃から親父と遊びでやっていたので、加入以前から好きだった。グローブやスパイクも既に持っていた。
初めてグローブを買ってもらう際に、箸やペン、バッティングさえも左利きなのに右投げだと分かり、父に「逆」矯正された(後から親にそう言われたが、当時の時点であまり記憶にない)。
ただし、左でスポーツをプレーすることが後々私の人生で大きな転機になったのは後から思えば面白いことである。

転校先でクラスメイトと仲良くなるにつれ、少年野球チームに誘われる。
逡巡するが、入ることにする。当時習っていたピアノ教室に行く途上であったと記憶している。

在籍メンバーが少なかったのもあり、歓迎はしてもらえたと記憶している。
左投げということで加入2日目の練習にてピッチング練習をしたが、全くストライクが入らずピッチャーとしてはその時点では採用されなかった。

試合への初出場がどんな状況であったかは今となっては覚えていない。
というか加入した2004年の記憶自体があまりない。
ルールとして定まっていたのか分からないが、当時の監督はその年の6年生の親が担当していていた。しかし、2004年は6年生が1名しかおらず、かつその人の親御さんは仕事が忙しくなかなか練習に来れないとのことで5年生の親御さんであるI氏が担当だった。なお、私が加入した当初の頃はよく来ていたが、秋~冬くらいはあまり練習に来ておらず、ヘッドコーチのS氏が監督を代行しているような状態であった。

I氏は野球経験がどれだけあるのか分からないが、監督としての能力はそう高くなく、勝てばよし、負ければ怒るというような人であった。
試合中に私含む控えたちがろくに応援や声出しもせずにがぶがぶお茶を飲んでいたら怒られた記憶がある。
I氏のもとでは大して出番もなかったが、基本的には外野の練習をしていたのと、来年以降を見据えてファーストの練習も行っていた。

加入してどれだけ経った時期かは覚えていないが、一度練習に行くことを拒否して泣いた記憶がある。
母に一度やると決めたことはやり通すよう諭され、遅刻したが練習に行ったと記憶している。
ついでに書くと、小学2年生くらいから合気道もやっていたがこちらも始めてしばらくしてすぐに飽きてしまった。子供クラス担当の人がなかなかに厳しかった、柔道や空手のように動きが激しくない、実生活での効果もエライ先生による講釈もよく分からず退屈、などが主な原因である。
今思えば週1回1時間の練習で自主練もしないのだからうまくなれるはずもない。

なんやかんやで12月になり、代替わりの時期となった。新監督は監督代行のS氏ではなく、同じく新6年生の父のI氏(さっきとは別のI氏)となった。
前年監督のI氏とチームの先輩である息子のIさんはそのしばらく後に家族で引っ越してしまった。Iさんは野球が上手で、かつ新6年生の中ではリーダーシップがあり加入して間もない私にも気さくに話かけてくれる人であったので、今思うとなかなか残念なことであった。

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