中学柔道の記憶(2009)

4月:新入部員の勧誘とSpringCup、至真旗

新入生はそこそこまとまった人数が入ってくれた。今となってはしっかりとは覚えていないが、1学年で団体メンバーを組めるくらいは入ったと記憶している。同じ小学校の後輩も数名入った。
新入部員の中にI氏という者がいた。彼は私と同じ小学校出身で、同級生の弟だった。彼に対し、同じ小学校出身の3年生は特別待遇で接した。なぜかと言えば、小学生の一時期、彼の姉をいじめていた後ろめたさがあったからである。教師の叱責を受けてそのような行動はやめていたし謝罪もしていたが、それでハイおわり、というような気持ちにはなれなかった。被害者の〇殺というような最悪な結果には至らなかったものの、可能性としてはあり得たのである。しかし思春期男子の性質として、正面切って彼女に償いをすることもできず、結果としてI氏をかわいがるということでせめてもの罪滅ぼしをしようとしていたのである。実際のところ、彼には見た目の可愛げと小学生気分の抜けていない腕白坊主なところがあり、可愛がりようのある人物であった。

昨年に続きSpringCupに出場したのだが、その前の1週間ほど、私はクラスの標語を書いた掲示物制作の担当をしていたのでろくに練習に出ていなかった。制作が難航していたのではなく、単に部活をさぼりたい気持ちから制作にいたずらに時間を費やしていたのである。ただ、さすがに1週間はやりすぎた。担任にも時間をかけすぎることを咎められたし、試合に負けて顧問にも叱責を受けた。担任や顧問に咎められること自体は何でもなかったが、練習をさぼった影響は明らかに試合の結果となって出ており、少し反省した。

新人戦で団体で県大会に出たからかこの年は木更津総合高の招待試合に呼ばれた。行けるところまでは勝ち進んだが、最後に国士舘中学と当たり、さすがになすすべなく粉砕された。よく覚えていないが、ベスト8か16くらいには入っていたのではないだろうか。

5月:群馬遠征・印旛郡市錬成大会・ブロック大会

5月、GWに入るとまた群馬遠征に行った。1泊2日の初日に練習会、2日目に前橋育英高主催の大会である。初日のことはよく覚えていない。2日目の朝、だいぶ早く起床したため2度寝をきめたところ、2回目の起床で起こしに来た顧問が布団の中にいるドッキリがあった。当時14年と7か月ほどの人生で一番驚いた。大会は2~3試合を勝ち上がったものの、地元前橋のチームに負けた。

帰ってきてから1週ほどで印旛郡市錬成大会があった。最初にグループリーグがあったはずだがよく覚えていない。決勝トーナメントに進み、まず印西中と当たったと記憶している。新人戦では1日に2度敗れたが、ここは勝利したように思う。なぜならば、次戦で富里中と対戦した記憶があるので、勝ち上がっての対戦だったと思われるからである。富里中には敗れた。

また1週ほど空けて、ブロック大会があった。団体・個人共に優勝した。
個人はTA氏との決勝で、お互いをよく知っているために本戦で決め手に欠き、延長戦までもつれ込んだ。この時代にはまだあまりGSは一般的ではなかったが、この大会はかなりローカルな大会であり試合の規定は割と先生方の判断で決められていたため、判定の決め手に欠く場合にはしばしば延長戦がおこなわれていたのだ。
最終的に延長戦で体力が尽きたTA氏を抑え込んで勝利した。最終学年で初めてブロック大会個人の優勝を手にしたのだった。
ブロック大会の翌日は1ヶ月ぶりに休みになった。

6~7月:北総大会・春の県大会・総体

ブロック大会の次は北総大会である。予選リーグは勝ち上がった。決勝トーナメントで佐原中のAチームと対戦し、私は引き分けたがチームとして負けた。反対側の山では佐原中のBチームが勝利し、決勝は佐原中同士という不愉快な結果だった。

その週は翌日に春の県大会があるという少々ハードな日程になっていた。
1回戦は勝ったが2回戦でまたしても八木が谷中に敗れた。

春の県大会が終わるとほぼ毎週の大会ラッシュが終わり、生活上のトピックも修学旅行にシフトした。ただし、私は55kg級に出るために減量をしていたので修学旅行先でも朝練を行った。朝練自体は3年生全員で行ったが、食事制限をしていたのでとにかく腹が減った。55kg級はエントリー人数も多いし県大会への出場枠も少ないので、今思えば減らさず60kg級で出場していればよかったのだが、当時の私はなぜか55kg級で出ることしか頭になかった。
クラスメイトが寝ている中、部屋を出て、ホテルの周辺を走った。錦通りという土産物屋や食品店が立ち並ぶ通りを走った。魚屋のおじさんが応援してくれた。

修学旅行が終わり、いよいよ総体である。
秋の新人戦で富里中が優勝していたので団体戦の県大会出場枠が1枠増えていた。なのでベスト4に入りさえすれば新人戦の時のように敗者復活戦には回らずに済んだ。佐倉中はベスト4に入り、また富里中に負けた。
個人戦は頑張って減量したがもう引退間近ということしか頭になく、富里中のK氏に敗れた。ちなみに彼は後に高校で国体選手となる。個人戦は気が乗らないのはこの時期から始まっていた。

団体戦で県大会に出場したが、チームの士気は低かった。3年生は目前に迫った引退に心躍らせていた。1回戦で白子中と当たり、1-0で敗れた。
私自身はこれで引退となった。TA氏は新設の50kg級で郡大会を勝ち抜いており、県大会でも決勝まで進出した。決勝では郡大会と同じく印西中のN氏と対戦し、僅差判定で敗れた。O氏はベスト8まで勝ち上がったが準々決勝で敗れた。

引退~進学

引退して、これまでほとんど休みなく部活をしてきた反動から夏休みはほとんど寝て過ごした。それはもう毎日食っちゃ寝だった。ただ、志望校は偏差値60越えのあの高校、またはあの高校というように現実とかけ離れたところを考えていた。ろくに勉強をしていないので模試の結果もよくないし学校の成績も上がらなかった。学校で受ける模試の結果は特に親に伝えていなかった(隠していたわけでなく、ただ単純に聞かれないの伝えていなかった)ので、秋頃の担任との三者面談で発覚した際には母のカミナリが落ちた。

ここに至って高校の教員をしている親父との朝の勉強会を始め、国語だけは成績が上がったが、数学や理科・英語はさっぱりだった。社会は元々ぼちぼちはできたので上りも下がりもしなかった。

受験も近づき佐倉東か南か、そんな学校くらいしか入れないという話にもなってきたそんな折、成田高校から部活推薦の話が来た。顧問によれば、成田高校と繋がりが深い西中の顧問が、なかなか推薦志願者の決まらない状態の成田高校関係者に私を推薦してくれたという。当時成田高校に佐倉中の先輩が数名進学していたことと、私が左組みであることなども幸いした。ここでも少年野球同様、左利きでプレーしたことが私の運命を変えた。

ただ、当初私は推薦を受けるつもりはなかった。受諾すればひとまず進学はなんとかなるが、また3年間部活の囚人となる。しかし、成田高校は勉強もそこそこの学校(いわゆる偏差値60そこそこの自称進学校だし、部活推薦組も受験組と同じクラスになるので一定程度勉強しなきゃいけない)なので、父と母はあの手この手で推薦を受諾するように私を説得した。
成田高校にも一度見学に行き、先生と話をした。中学の先輩とも話をした。結局高校受験の終了という目先の快楽を求め、私は部活推薦を受諾することにした。

部活推薦を受ける旨を担任に報告したところ、彼は成田高校に入っても勉強についていけないからやめておけ、と言った。私に対してだけならともかく、彼は私の親を交えた三者面談の場で言ったのである。そのことについて子どものやる気を削ぐようなことを言うな、と母は怒っていた。私はもともと担任のことが嫌いだったし、高校が決まったという嬉しさで特になんとも思わなかった。

とにもかくにもこれでまた3年間(実質は2年と3か月ほど)部活にとらわれることが決まった。





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