少年野球の記憶(③2006)

★2006年:少年野球最終年

前々年は6年生が1名、5年生が3名ということもあり、ほとんどが負け試合だった。
前年は6年生が少なかったもののI氏の改革もあり、前年よりも個々の能力が向上、ぼちぼち勝てるチームにはなっていた。
2006年はついに6年生のみでチームを組むことができるようになり、周囲の期待も高まっていた。しかし、結果から見ると思ったほどの戦果は挙げられなかった。

F氏体制で背番号が5から8に変わった。一応は守備位置で決めたとなっているが、私はセンターではなくライトを守ることが多く、納得がいかなかった。何よりも前年大して活躍していない同級生に5番が振り分けられたことに不満であった。この時点で新監督F氏に対する違和感があり、それは結局引退まで変わることは無かった。

新体制での1試合目は当時地域の強豪だった佐倉ビクトリーで、先発したが2ケタ失点のぼろ負けだった。試合中に泣いて前監督のI氏に怒られた。

その後F氏体制ではこれまで負けたことがないようなチームや、リードしていたのにミスの連発で無様に負けるなどの結果が相次いだ。私自身もエラーをしたし、登板している時に打ち取った当たりをエラーされて失点ということも多くあった。少年野球は細かい技術云々よりも楽しんでプレーする方がよいとは思うが、こうしたエラーで勝てる試合を落とすのは興を著しく削ぐ。楽しむことと楽をすることをはき違えてはいけない。楽しむためには楽をせずに正しく使える技術を確実に習得することも不可欠である。
また、エラーをされて負ける体験を繰り返したことは後々競技者として野球に取り組む気持ちを失わせる一つの要因ともなった。

F氏体制化では、F氏の息子で私の同級生(双子)もしょっちゅう叱られていた。いわゆる見せしめ的な𠮟責である。彼ら自身がどのように受け止めていたかはわからないが、見ていて気持ちの良いものではなかった。
ただし、F氏の指示か放課後走り込みをしていた彼らの足の速さは以前と比べて段違いに向上していた。

6年生となって名実ともにチームの主力となったのだが、いまいち記憶に残っていない。なぜだろうかと考えてみたが、以下2つに集約されるのではないかと思う。
・練習もI氏が残した練習に多少精神論が追加されたようなもので真新しさや効果のあるものがなかった。
・練習が上記のような状態なので試合の結果も芳しくなかった。また、これまで勝てなかった相手に勝つというような爽快感や達成感のある記憶がない。
というわけで2006年はパッとしないまま、私の少年野球時代は幕を閉じた。

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