結局のところ

あれからもうすぐ一年が経つ。去年の今頃。妻に残された時間があまりにも少ない事を知り、それでも笑顔でいれるように必死だった僕は、きっと歪んだ顔をしていたに違いない。たぶんそんな僕の事を彼女はお見通しで。だからこそ今でも後悔が残る。もっと何かできたはずだ。あの時、こうしていれば。

人生において。例えば仕事や人間関係においてそんな事を思った事はほぼない。僕は優しくもなければ世界にも人にも基本的に何も期待していない人間だったから。けれど。妻に会い彼女と共に歩んだ事で、少なくとも彼女にだけは優しく、できるならば願いは全部叶えてあげたいと思った。だから自分の不甲斐なさをヘドが出るほど憎んだ。憎んだところで何も変わるはずなどないのはわかっていたのだけれど。

あれからずっと。あの日々と同じく笑ってはいる。それは優しい人たちが僕を励ましてくれたり、沢山の映画たちが力をくれているから。そういった様々への感謝が僕をこの世界に繋ぎ止めている。

そして「最後まで足掻く」と命を諦めなかった妻に対し、何も出来なかった贖罪として今も生きている。

心の底から愛した人を喪うというのは傍から見ているよりずっと苦しい。それは大好きな映画でもどんな優れた役者でも表現する事などできない。それでも普通を装い笑顔を残して生きれるのだから、人とは強いものだ。あるいは既に壊れているのかもしれないけれど。

結局のところ

僕はあの日からもう、全てにおいて執着もなく本質的な部分で世界に対する興味も失い、ただ感謝と贖罪の為だけに日々を送っているだけだ。死ぬ勇気もなくただルーチンをこなし映画を観て食べて寝るだけ。誰かの優しさに甘えて、映画に救いを見出し、誰かを安心させる為だけに笑って。

それでもね。
そのおかげでね。

少しずつちゃんと笑えるようにはなってきたんだ。

何も出来なかった男が誰かの優しさに救われるなんて、本当は烏滸がましい事なのかもしれないけれど。

あれから一年。もうすぐ一周忌を迎える。

どうあれ。好きなものや感謝すべき人たちがいて、遺影の中の妻が笑ってくれている限り。

僕の人生は続く。
僕の人生は終われない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?