見出し画像

『オッペンハイマー』感想

 クリストファー・ノーラン監督作品「オッペンハイマー」は本国である米国での公開から数か月遅れ日本でも公開された。(映画を見て改めて思ったが、公開を躊躇するような内容がどこにあったのだろうか)

 まず最初に率直な感想として。長々と続く会話劇が全体を占めるという構成には正直飽きてしまった。展開が速く、かつ政治的な会話や様々な固有名が並べられた字幕を追いながら話を理解するのが間に合わない。かつ映像をぶつ切りに時間軸をばらばらにするノーラン的な手法がさらに難易度を高めた。

 まずはそういう難解な会話劇の細部を詳細に検証し、ばらばらになった時間軸を正確に把握して全体像の整合性を見るようなことは不要としよう。そのうえで核心的な部分だけを取り出し、そこからこの映画を見ていこうと思う。

 細かいことを抜きにして話せば、この映画はオッペンハイマーという主人公の目線を通して描く手法にこだわったことで結果的に反原爆というメッセージをとても誠実に表現できていると思う。それは過度に誇張された悲惨な映像などではなく、彼の身の回り、そして彼の心の中に起きたありのままの様子を描くことだけでいかにメッセージに説得力を持たせるかということだ。

よってネット上で散見された「実際の原爆の脅威、直接的な悲惨さが描かれていない」という意見は的外れであり、この映画の手法そのものの効果を理解していない。もちろん彼は広島や長崎に行ってはいないし、彼が知りえるのは死者数、規模、爆発の様子などの情報だけである。そこからいかに彼の中の心境の変化、動揺、葛藤、後悔を描くかがこの映画の一つの重要な側面である。

 オッペンハイマーとはどのような人物だったのか。それは先ほど言った誠実な映画表現そのものに繋がる。よって人間性を描くことは本作にとって非常に重要な意味を持つ。オッペンハイマーは自分の置かれている立場、行動にどのような意味が生まれるかということにかなり無自覚である。例えばこの映画の主題の一つである共産主義への接近だが、熱心な共産党員でもあった弟という身近な存在とのつながりから、あまり深く考えることもなく共産党員の会合に出席し、その中で人間関係を作ってしまう。映画内では本人から共産党についての発言もいくつかあったと思うが、どちらかというと固い思想での結びつきというよりは、人間関係、特に男女関係という普通の人間関係でふらふらとそこに吸い寄せられ、その後に続く関係を築いてしまう。
科学者として徐々に国家の作戦に入り込むなかで、共産党員への風当たりが強くなるような状況のなかでも、わりと深く考えずにずぶずぶと関係を続けてしまう。そこでの自分の立場と政治的意味に気づきつつなのか、それともただ鈍感なのか、そのあたりにオッペンハイマーの人間的な「ダメさ」が現れている。むしろ科学者としてのオッペンハイマーではなく、それ以外の彼の人間性そのものの存在肯定として、この居場所が必要だったのかもしれない。

 近代、そして戦時下という状況における「科学」の果たす役割と、科学者としてのオッペンハイマーの生き方がどのように原子爆弾を生むことに繋がるのか。近代の歴史観は科学と密接に結びついている。近代における進歩とは理性的な人間が自然そのものを読解していく、発見していくプロセスだと考えられていた。そこに植民地主義や帝国主義という歴史観が融合し、科学の進歩と啓蒙という観点から世界の中心を自覚する西欧列強国自身が歴史そのものを作っていくというイデオロギーがあった。そのような時代における科学者の役割とは、その科学者としての業績や真価を問われる、つまり一つの発見や発明が歴史を変えることに繋がる、大きな意義を持っていた。しかし科学技術によるテクノロジーは戦時下という状況ではすなわち武力というものに結び付いてしまうことを逃れられない。科学が戦時下における政治性に回収され、戦争に最適化されていく。科学者自身が自分の研究の成果を存分に発揮できる場所こそが、戦時下の西欧諸国だったのだろう。そこに悲劇的な帰結が生まれる。それはオッペンハイマーだけではなかったはずだ。しかし偶然にもこの才能と機会が与えられた人物こそオッペンハイマーだった。そして原子爆弾は生み出され、それが投下され、今日の世界がある。

 オッペンハイマーが原爆を開発した本当の理由はなんだったのだろう。科学者としての探究心、もちろんそれもあるだろう。しかしその中にある彼の中の一つの欠点、苦手意識、なかなか成しえなかったこと、それは理論を証明する「実験」であり、それこそがマンハッタン計画、そしてその壮大な「実験場」としてのロスアラモスへ結実していくのではないだろうか。教鞭を握り、ほかの科学者たちと出会うことで、彼は「理論」の組み上げだけではなく、多くの人たちとの共同での研究ということ、そして「実験」がもつ重要性に気が付いたように見える。多くの人と一緒に進められるマンハッタン計画は彼に与えられたチャンスであり、彼の理論の証明である爆破実験の成功こそが、むしろその後の現実としての爆弾の投下以前に彼が成しえてしまった人生の「到達点」だったのではないだろうか。彼は原子爆弾という実験の結果を成しえてしまった。しかし同時にテクノロジーを生み出してしまった。科学も歴史も世界もそこでは何一つ終わらない。世界は続いていく。(核分裂は続き、誘爆し続ける、世界中で)

 哲学者ハンナ・アーレントのあまりにも有名な概念に「悪の凡庸」がある。これはナチスのユダヤ人ジェノサイドの中心的役割を果たしたアイヒマンが法廷で自分の行いについて淡々と語ったことから、世界最大の悪は、ごく平凡な人間が動機 も信念も邪心も悪魔的な意図も無しに行われたのではないかという見解だ。これにならってオッペンハイマーの行いを「科学的探究心における悪」と解釈してみよう。科学技術は毒にも薬にも、神にも悪魔にもなる。それは開発者の純粋な科学的探究心が、結果的に大きな悪に繋がってしまう可能性があるという逃れられない危険性である。すべては後から解釈されるにすぎない。今、ここで何かを生み出してしまうことそのものの是非は問えないのだ。無自覚であり、意図のない加害性、そうした悪はこの時代の科学者だけのものではなく、現代の我々にも起こりえる普遍的な課題なのかもしれない。

 一方、全体の半分以上を構成する「赤狩り」をめぐる政治劇はいったいこの映画の何を表しているのだろうか。そこで起きているのは政治劇に見せかけた、ストローズの個人的な復讐劇にも見える。それはつまり誰かの個人的で些細な発端となる動機が本人の意図から逸脱し、現実の中で全く別の、そしてもっと大きな出来事として意味を持ってしまうということなのかもしれない(それはオッペンハイマーにとっての科学的探究心とその帰結としての武力である)。ストローズの場合、それはオッペンハイマーが手にした影響力を政治思想的な文脈を使って見事キャンセルしてみせるという手法だったのだろう。ストローズはオッペンハイマーが自ら生み出した技術を後になって否定するという自己反省的な態度が気に入らなかった。技術を開発することと権力を手に入れることが結びつくその時代に、科学では到底勝ち目のないストローズが政治性のゲームによりその権力を崩す、そこにこそストローズの戦略がある。オッペンハイマーは自分の科学技術が世界にとってどのような政治的意味を持つことになるかいまいち無自覚だった。つまり個人的な探究心が全く別の政治的な意味を持つこと、またストローズにおける個人的な怨恨が政治的なゲームに発展すること。こうしたもともとの意図がその本来の目的を外れて、どうしても政治性に回収されてしまうという構造こそ、戦時下の一人の男の生き方だったのかもしれない。

 最後に実はこの映画全体のテーマは冒頭部分のオッペンハイマーの行動に表れているという見方を提示したい。嫌味を言い続ける指導教官、彼が食べるであろう林檎に青酸カリを注射するオッペンハイマー。一晩経って自分の犯した過ちに気づき、すんでのところで阻止する。その時、林檎を食べようとしていたのは、狙っていた指導教官ではない。これは次のようなことではないだろうか。毒林檎で狙われたのは最初ドイツだった。しかし時間差などの関係から別の第三者である日本に向けられた。林檎による毒殺はギリギリ回避された。しかし実際の歴史ではそうできなかった。気が付いた時にはもうすべてが遅かったのだ。



以下は本編と外れるが別の機会に検討したい

 ①映画公開が遅れたことにより、余計な期待値や価値を高めてしまったのではないか。
 ②ノーランお得意の映像手法は、今作で有効だったのか
 ③赤狩りの場面をここまでたっぷりと描く意味はあったのか。
 ④ノーランは「一回だけの視聴体験」をどの様に考えているのだろうか。「一回見ただけじゃ細部は分からない」描き方を繰り返しながら、圧倒的な映像や音響という「映画館で見るため」に作ったような映画。多くの人は一回の視聴体験のために映画館に行くはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?