朝焼け/二次創作短歌雑記


 スマホの鳴った音で目が覚めた。その程度の音で目が覚めてしまう程には上手く眠れない日だった。画面に表示されていた時刻は朝の五時。ちょうど起きようと思っていた時間だった。
 音の原因は、なんてことない三枝明那のツイート通知だった。寝起きの頭でなんとなく確認して、そのまま目を覚ます。思っていたよりすんなりと調子良く起きれたな…と安心しながら、ふと「『今日も朝焼けはあなたの色をしている』ってこういうことじゃん……」と思った。
 『今日もまた猫が目覚めて 今日も朝焼けはあなたの色をしている』というのは、前に自分が三枝明那に寄せて詠んだ短歌の一つだ。詠んだ当時特に込めていなかった意味合いが後から生まれることってあるんだな…と思って、少し面白かった。



 自分の詠んだ短歌の解説をするのってどこまでも野暮だ。でもやるか。やりたいからな。本当はこんな文章が無くても伝えたかったことが伝わっていたら嬉しいと思っている。


楽曲「ラブヘイト/Rain Drops」に寄せて




 ラブヘイトの短歌に関してはまず、以前書いたラブヘイトの解釈文章を読んで欲しいと思っている。この曲をこういう風に噛み砕いて飲み込んだ人間の詠んだものであると知って欲しい。ラブヘイトという曲に対して自分が出せるもの全てをそこに残してきました。
 とかなんとか仰々しいことを言ったけれど、詠んだ短歌自体は基本的に元からある歌詞を自分の言葉で言い換えただけのそれだなと思っている。それはもうつまり純粋に短歌を詠むのが下手だ。もっと上手く出来たら嬉しい。



『空はただ青く 退屈蹴飛ばした僕の靴だけ汚れるばかり』

 空に浮かぶ太陽の靴はそりゃ汚れないよな、という嫉妬心。飛び立てず地面に立ったままの自分の靴だけが汚れているというのが最初に思い浮かんで、後から曲中フレーズの「退屈蹴っ飛ばしても」が繋がるな…ということに気づいて、繋げた。
 なんとなく、一番すんなりとラブヘイトっぽい短歌になったなと思っている。解説が無くても情景や感情が分かりやすい、気がする。



『奪われた瞳を取り戻せずにいる プリズム 僕に焼けつく光』

 曲中「光射すプリズム 目を奪われる」より。一度抱いた興味や憧れの気持ちを手放せずにいることのどうしようもなさ。
 「奪われた瞳を取り戻せずにいる」が最初に出来て、どうしてもそれを使いたくて後から繋がる言葉を無理やり並べた感じがある。言葉としては「僕に焼きつく光」の方が自然な気がするけど、敢えて「焼けつく」にしたのは「妬ける」の意味合いを込めたかったから。



『憧れと呼ぶには惨め 降り止まぬ羨望 (あなたみたいになりたい)』

 曲中で一番好きなフレーズが「あなたみたいになりたい」だったから使いたかった。おそらくこの11文字を入れるなら最後の77に あなたみたいに/なりたい〇〇〇 の様な形が一番綺麗かなとは思うけど、どうしてもこのフレーズで終わらせたくて句切れをめちゃくちゃにした。何句切れなんだこれは。
 曲中で愛憎、羨望、嫉妬という感情が雨に例えられているのが好きだ。きっと傘なんて持てないままずぶ濡れになっている。そんな苦しさや惨めさの中でそれでもただ一つ「あなたみたいになりたい」という願いを捨てられずに抱え続けているのが、どこか健気さすらあって、痛々しくて、本当にどうしようもなくて好き。



『「僕達は同じだ」 空に飛び出した/画面越しの夢に飛び込んだ』

 個人的なラブヘイトという曲の解釈の基盤として「『人から憧れの感情を向けられ得る存在』と『それに対して自分もそうなりたいと憧れの感情を向ける者』の関係性」の歌だ、というものがあるけれど、作詞を手がけた三枝明那にとって上記の関係性が「『バーチャルライバー』と『それに憧れて結果ライバーになった自分』」という形に当てはまるとするなら、という観点から詠んだもの。その関係性において三枝明那の視点を借りたのは、自分自身はライバーとリスナー(自分)というそれに対してその視点を持っていないから。
 曲中「僕は走り出してた!I know,You're the same as me.」より。「僕とは違うけど」というフレーズがある以上「同じだ」と言ってしまうのは少し違うかもなという気持ちもありつつ、「I know,〜」という歌詞を初めて認識した時の衝撃が大きかったのでこの形で引用。
 ラブヘイトの画としての構図を考えると「空に飛び出す」という図が思い浮かびやすいのだけど、それが"バーチャルライバーになる"=「画面の中の存在になる」に繋がる可能性があるとするなら、『外に飛び出す』と『中に飛び込む』が同じ意味を持っていて面白いな……と思った、という短歌。



『その腕を掴む 三十六度五分 あなたと同じ今を生きてる』

 曲中「今を生きるあなたに惹かれてる」「あなたが差し出した腕を掴み」より。
 太陽に例えられているようなあなたも僕と同じ人間だったんだ、という短歌。それ以上でもそれ以下でもないな。1つ前で語りすぎているのに比べてこっちはあまりにもシンプル。本当は「36.5℃」の方が伝わりやすいよなと思っていたけれど、縦書きの美しさを優先し妥協した。
 ラブヘイトの「You're the same as me.」という言葉に込められた「太陽のようなあなたも僕と同じ人間だったんだ」というそれと「自分も太陽のようなあなたと同じように空を飛べるんだ」というそれの二重の気づきがすごく好きだ、という思いが詰め込まれている。
 『「僕達は同じだ」…』で言った様にこの曲にバーチャルライバーの存在を見るとした時に、「今を生きる」という言葉が使われているのがすごく好きで、それを使いたかった。


https://youtu.be/iXdsQYTZxBw



バーチャルライバー 三枝明那に寄せて





『「真実と思う」と「信じる」ことは別 二十二本の灯りは後者』

 三枝明那の年齢はよくガバる。20歳から20歳になったのちに21歳22歳と歳を重ねて、最近はたまに年齢不詳を自称する。最初に年齢不詳を自称したのは2021年9月の誕生日を迎えた時で、その時やたら「三枝明那が22歳であること」に対しての短歌を考えた。その中で言いたいことが綺麗に纏まったのがこの短歌。
 三枝明那のことを信じているけど、言ってることが真実であり信用に値するものであるとは思っていない。気まぐれで適当なことばかり言いがちで、前に言ったことをすっかり忘れていることも多い。
 「真実と思う」ことには「真実ではなかった時の失望」が付属すると思う。少なからず自分が三枝に対して向ける「信じる」にはそれが無い。「そうでなくても別にいいけどそうであったら楽しいな」という緩やかな期待の感情だ。
 ボツの一つとして『信じたい 二十二歳の君 サンタクロースは居た方が楽しい』というものがある。今更サンタクロースが実在しないことに失望なんかはしないけど、それでもサンタクロースという概念の存在を否定することは無い。あった方が楽しいから。「三枝明那は22歳である」という概念はそれに似ている。



『その細い背から零れる気まぐれを信じて 心地いい罪の味』

 また「信じる」って言ってるな。『「真実と思う」と…』で言った「三枝明那を信じるということ」をより強くテーマにしたのがこれ。
 適当で気まぐれで本人も何言ってたか忘れる様な脊髄反射の言葉たちを信じるということ。三枝明那自身としてはそんな言葉は忘れてもらった方が都合がいいんだろう、というのは普段の言動から感じ取れるんだけど、それでも言った本人よりも強く覚えていてしまうのがこちら側の性。あれもこれも覚えてるよと伝えてしまうのはあまり気分の良いものでは無いよなという気持ちがあるから、過去と矛盾したことを話していても「前は〇〇って言ってたやないか〜い」と笑って言葉を飲み込んだりする。一緒に覚えていないフリをすることの共犯のような意識と、それに感じる居心地の良さ。
 この短歌に対する解説とはまた話が逸れるけれど、三枝明那というコンテンツの"善すぎない"ところが好きだ。別にアウトローな悪を楽しむコンテンツという訳では無いけど、決して綺麗で澄んだ優しさと善意によって成り立っているものでもない。気心の知れた友人とちょっとした悪ノリを共有する時の様な雰囲気があって、それにどうしようもなく居心地の良さを感じている。
 ちなみに三枝明那のことを気心の知れた友人の様に感じるのは、三枝がこちらに対してそう思って接しているからではなく(いや、本人がこちらに対してどう思っているかは知らないが)、彼自身の持つ適当さやノリの良さといった雰囲気そのものがこちらの持つ「気心の知れた友人と何気ない会話をする時の空気感」のイメージと類似しているからだと思っている。そういう所が良いんだよな。唐突に語り出すなよ。



『今日もまた猫が目覚めて 今日も朝焼けはあなたの色をしている』

 ねむねむにゃんこ短歌。三枝明那は早朝に起きがち。
 いつかふと朝方の日が昇る頃の空を見た時ちょうど綺麗な赤寄りの紫色をしていて、なんか三枝っぽいなと思ったのを覚えている。公式イメージカラーの深い紫と、Rain Dropsメンバーカラーの朱色。朝焼けというものが本当にそういう色をしているのかはよく分からないのだけど、なんとなく三枝明那には朝…ちょうど日が出てくる頃の時間帯のイメージがあるのでそういう短歌を詠んでみたかった。
 「今日も朝焼けはあなたの色をしている」はそのまま色のことを詠んだつもりだったのだけど、冒頭で話した様な"起きることに不安を覚えていた朝を、三枝からの通知で目覚めることで少し楽な気持ちで迎えることが出来た"という経験を経て、なんというか…そういう…朝焼けがあなたの色をしていることの安堵感や嬉しさという意味合いもあった気がし始めて、なんか良いな(他人事?)
 「今日もまた」と「今日も朝」で音を重ねているの、そういう字面が好きすぎというのが出ている。






 やっぱりこういうのは無い方が、あってももっとさっぱりと纏めている方が短歌という作品の姿勢として趣があるんだろうとは思うけれど、とにもかくにも自分が思っていた様々をワーッと吐き出せて楽しかった。楽しかったので良かったです。


 短歌というものが好きで、二次創作短歌という文化もものすごく好きでもっと見てみたいなという気持ちがあるのだけど、いざ自分がじゃあそれの担い手になれるかと問われると多分無理だ。今思い返しても「こういうのが詠める時の自分、ノリにノリすぎている…(今じゃ絶対出来ん)」と思う。こういう能力にも旬みたいなものがあって、今イケるぞ!って時じゃないと全然なんにも思いつかないな。

 それはそれとしてやっぱりもっと色々見てみたいよの気持ちがあります。そして多分自分の知らないところでそういった作品を作ってる人も沢山いるんだろうな。


 またなにか、今イケるぞ!って時が来たら作りたいなと思います。来て欲しい、そういう瞬間。出来れば常であれ。