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第一弾 「とんぼ」長渕剛を考察する。

「長渕剛って知ってる?」と言えば、「誰やねん」とすら友人から言われる始末の現在。世代間による認知度ギャップを考慮しても、中々受け入れ難い言動です。というのも、長渕剛さんの歌は…“詩”なんですよね。あるいは“唄”。今回から、そんな長渕剛さんの曲を18歳なりに考察していきたいと思います。

▽目次
●「とんぼ」とは
●曲考察
●まとめ

●「とんぼ」とは


まず、とんぼとは何か。端的には、ヤクザ役の剛主演のドラマの題名および主題歌である。ドラマの内容としては、小川英二役の剛がヤクザとしてムショの務めを果たす時、世は変わっていた。妹は大学を辞め、恋人は別の男が出来たそう。挙げ句の果てに、自身の所属である八田組からも英二は厄介払い、あわよくば始末されようとしていた。理由は、英二が八田組の様々な裏事情を知っており、その口封じであった。

このようなドラマの中に、当時の剛たるメッセージが色々残されている。一言で言うと、“真の人情”のようなものであります。例えば…

車が混雑している。停止線で検査しているためだった。その看板の横に若い警備員がいる。英二には、そのあたふたとした光景が、少し上京時の自分と重なったのか、その警備員が横を通る時、窓ガラスを下げる。
「すっっ、すいません!許してください!」
「にいちゃん、、国はぁどこだ?東京もんじゃねえだろぉ。」
「あ、青森です…」
「この仕事も、大変なんだよなぁ、、これ(財布から一万円札を取る)でうまいもんでも食え。」
(第一話の10分程度経ったときの話)


このようなメッセージ性のある場面がいくつもある。ショート動画でもよくあるので、是非見ていただきたい。


●曲考察


そんなこんなで、ドラマの背景とともに見てきたが、今度は曲。実は、曲の方が深いということが長渕剛にはよくある。(というのも、他にも剛主演のドラマや映画作品は色々あるからなのです。)

早速見ていこう。

コツコツとアスファルトに刻む足音を踏み締めるたびに
俺は俺であり続けたい、そう願った

まず言えること。なんだろうか、とても情景がパッと浮かぶのである。踏みしめるたびに、、「俺は俺」でいたい…。

「俺は俺」というフレーズは、割とよく使われている。しかしおそらく、他曲とは違い、とんぼでは少しサラッと流している感があると感じている。そこは長渕さんの、主題歌はなるべく世間に馴染むようオブラートな表現にするよう気遣っている感が伝わってくる。


昔から、父の車や私物の中には長渕剛が入り込んでいた。幼少時の頃といえば、FRIENDSのアルバム曲と、特に“蝉”が一番脳裏に刻まれている。しかし、その頃の私には意味など到底理解不能だった。月日は流れ中3の頃、父から長渕剛を聞かされ初めた頃、あれだけ聴いたことのある曲たちなのに、ワンフレーズ聴いただけで脊髄がビリビリと痺れた。
「何かが違う。僕の求めているものが、やっとここにあるのか…?」…。その頃は曲を聞きあさり、ひたすら自分の好みを追求した。しかし何も見つからなかった。米津玄師や尾崎豊、ひいてはMCバトルなどに手をつけていたが、何か肌に馴染みきらないものがあった。いわゆる“灯台下暗し”ってやつを、しっかり肌で感じた時だった。ここから私の長渕人生は始まった。

裏腹な心たちが見えて やりきれない夜を数え
逃れられない闇の中で今日も眠ったふりをする

ここもポイントで、長渕さんにしては妙に抽象的なのである。いつもは、抽象と具体が縦横無尽にシュバババっと変わるようなイメージなのだが、これだとニュアンスが伝わりにくい。まあ、これだから“オリコン一位”になっちゃうのでしょうが。

死にたいくらいに憧れた花の都大東京
薄っぺらのボストンバック北へ北へ向かった

これは長渕自身の若かりし頃の回想だと思われる。全くもって英二が「花の都、大東京!」という印象を出しているとは思わない。

ざらついた苦い砂を噛むと ねじ伏せられた正直さが
今頃になって やけに骨身に沁みる

要は、昔の苦悩が何らかのきっかけでフラッシュバックするということである。“骨身に染みる”なんて、中3から最近にかけて、割とプラスの意味だと思っていたのだが、違った。しかし、こういう表現も、「心身ともにこたえた」なんて書くと、何も浮かばないのである。一つ一つが長渕剛の“感性”をもって作られていることがこの曲でもわかる。

あぁ…幸せのとんぼよどこへ、お前はどこへ飛んで行く
あぁ…幸せのとんぼがほらっ舌を出して笑ってら(※)

おそらく、民歌の“とんぼ”を目指して、長渕さんはこの曲を作ったのかとも思われる。人々の心の奥底に潜む“感性”というものに、どうにか突き刺さるよう書いている。

明日からまた冬の風が横っ面を吹き抜けてゆく
それでもおめおめと生き抜く俺を恥じらう

聞きづらいが、よく聞き込むとしっかり入ってくる感。変えようとする現実と、変えることを恥じる自分の葛藤といった感じか。


裸足のまんまじゃ寒くて 凍りつくような夜を数え
だけど俺はこの街を愛し そしてこの街を憎んだ

問題は、愛した対象は“街”なのか。それとも花の都=国という感じなのか。どちらにせよ、愛しているからこその…


死にたいくらいに憧れた東京のバカヤローが
知らん顔して黙ったまま突っ立ってる
けつの座りの悪い都会で憤りの酒をたらせば
半端な俺の骨身に沁みる

出ました、バカヤロー。この曲で唯一尖る場所。
そして、「骨身に沁みる」を多様することで、最低限の聞きやすさも保つという、なんとも気の利いたことか。

しかし、いつもならこの“世に対する苦”を“怒”に転換するのを、“哀”にしているのも特徴。
やけ酒で、自傷行為に浸るという感じの回想だが、しんみりすぎる感じもする。


全体的に見て、とても聴いやすい歌なことは誰もが思うと思います。そして、そのわけにはちゃんと裏があるのだなと僕は思いました。

長渕剛に浸り、俗世間の曲などにもう完全に出遅れちまった状態。ミーハーはせめて押さえるべきかといつも問答するも、僕自身も「俺は俺」という何か“風”に逆らいたい自分がいます。その意味で、この曲はある意味とてもわかりやすい曲なのでしょう。

しかし、このとんぼは、剛作の中でも、乾杯、巡恋歌に並ぶミーハー中のミーハー。最近のライブでは、ダウンタウンとのトーク番組の時のように、“儚さ”がメインの曲調で歌うことが多くなった。ギターの弦で、まるで故郷に誘われるかのようなメロディー…。剛も、とんぼが一人歩きしすぎたことに、少しでも修正を加えたのだと思う。

あとは、最近の若者の曲風としては、とんぼは割とマッチしているのだろうか。私は、古参のファンが今でも「とんぼが聞きたい」と願う気持ちが理解できない。まだ私にも分かっていないことがあるのだと思う。


●まとめ

このように、長渕剛の歌詞には、詩的な要素が分断にあり、その頭の世界観がもろに映し出されている点で、私は虜になった。
しかし、これは氷山の一角に過ぎなかった。中3の終わり、とんぼや巡恋歌を知った後のあたりから、また体には電流が流れるような衝撃が続く日々となった。


今回はこれで終了ですが、次回もどんどん、この長渕剛の魅力について語っていきたいと思います。もし、記事にしてほしい曲のリクエストがあれば、コメントに書いて頂ければと思います。

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