#08 映画「PLAN75」評:現実と地続きな、命を値踏みする社会を鋭く描く
先日、映画「PLAN 75」を観た。
75歳から生死の選択権が与えられる制度<PLAN75>が施行された日本を舞台とするフィクションだ。もちろんこのような制度がそのまま実現することはないだろう。しかし、まったくゼロとは言えない、そういうリアリティを感じさせる映画だった。あらすじは以下。
日本社会は30年間経済成長がないまま格差が広がり、ますます不寛容で自己責任を強いるようになった。そして「命の価値が経済的な尺度で測れる」と容易に思わせてしまう空気が蔓延している。そういう恐ろしさは日常のあちこちに潜んでいるが、漫然と生きていると気づかないでスルーしてしまいがちだ(あるいは気付かないでいた方が楽なので、見ないフリをしてしまう)。
この映画の設定が荒唐無稽と思えるものでも、ひとつひとつの描写にリアリティが感じられるのは、そういった日常にある「違和感」や、なにか「嫌な感じがするもの」を、ある種アンプのように増幅して具現化することで可視化してくれているからかもしれない。監督・脚本を務める早川千絵さんの、現代社会をとらえる鋭い観察力やその表現力には感服するよりない。
劇中ではほとんど説明的なセリフがないが、役者の演技や小道具などから、劇中の世界観がよく伝わってくる。日本でこの制度が施行されたら、たしかにこんなふうになるのだろうな…と思わせる。
例えば…、
<PLAN75>はあくまで自分らしい最期を迎えるための、そして未来を守るための制度である、という前向きな広報イメージ。
しかし実際には、それによってかえって、生きていることを申し訳ないと思わせる無言の圧力が生まれている。
制度を勧める役所の担当者は疑問を感じつつも見てみぬふりし、それぞれ真面目に目の前の仕事をこなす。
制度を支える裏側の嫌な部分の仕事は、出稼ぎの外国人を登用する。
制度に申し込んだ人に政府から支払われる支度金の金額なんかも、なんとも現実味がある。
…この物語は、現実と地続きなのだ。
それから、主役の倍賞千恵子さんも素晴らしかった。倍賞さん演じる主人公ミチが、これまでまじめに丁寧に生きてきた人だということが本当によくわかる。そして、観た人に「この人には生きていてほしい、死んでほしくない」と思わせる健気な魅力がある。
…と書いてみて、気づくのだ。そう考えている自分も、命の価値を測っている;値踏みしているのではないかと。本当はミチのように真面目でなくとも、健気な人でなくとも、死んで良いなんてことはないのに。
もちろん、自分との距離感によって––赤の他人よりも身近な人の命の方が、自分にとって大切に感じられるというのは自然なことではある。しかしそれとは別に、その人が善い人かどうか、真面目な人かどうか、あるいは社会的地位が高いかどうか、そんなことで命を測ろうとしてはいないだろうか?人間にはかなり根深く、命を値踏みするクセがこびりついているのではないかと思う…多かれ少なかれ誰の心にも。
命の価値や優劣、選別のような話は、ある種の事件や出来事があるたびに、SNS上などでも話題に上がる。なんでも市場的な価値で測ることができるという価値観の社会に身を浸していると、つい簡単なことを忘れてしまう––命は決してお金では買えないということを。つまり、経済的な指標で測り得る領域の外にあるはずの命を、あたかも測定可能なものであると錯覚し、値踏みする。これは理屈を超えて、身体に染み込んだクセだと言えるかもしれない。身体に染み込んだクセは自分で気づくことが難しく、それゆえ取り払うことも難しい。こうした人々の身体に染み込んだ醜いクセを、この映画は捉えて増幅し、可視化してくれているではないか。
大変な秀作で、おすすめです。
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