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#09 命の価値を測ってしまう、”思考の檻”から抜け出そう

定期的に浅はかな/扇動的な有名人から、人間の価値を生産性で測り、命の値踏みをするような発言が発せられることがあります。

これを聞いて、”本質的には否定できない”と思ってしまう人――思考の檻に囚われてしまう人も残念ながらいると思います。これは命の選別や優生思想などにつながる危険をはらむ考えなので、こうした発言が注目されるたびに私は意見を述べることにしています(似たような投稿は過去に何度もしています。参考までに末尾にリンクを転記しておきますので、本記事はごくシンプルにtwitterのまとめ)。

ネオリベラリズム的な価値観が隅々まで染み渡った社会に住んでいると、すべてのものが経済的価値で測ることができると錯覚してしまうものです。市場によって決められる経済的価値が”高いか低いか”という軸だけで測るということは、とっても分かりやすい反面、一面的で乱暴な考え方でもあります。解像度が低い世界の見方と言っても良いかもしれません。

その見方――価値の体系は、市場というゲームの枠内で成り立つルールだったのに、市場的な領域が広がりながら世界を侵食し、私たちはいつの間にかすべてのものにそのルールが適用されると信じ込まされてしまうようになります。そういう価値観が頭だけでなく身体に染み込んでしまっていると言えます。それは”信仰”と言っても良いかもしれません。

そうなるとその”信仰”から抜け出すのはとても難しいことです。経済的な価値を測るモノサシを人間の命にもあてて、その人の命の価値を測れるような気になってしまうのです。しかし、当然ながら”カネで測れるもの”は、”カネで買えるもの”だけです。私たちは、なぜそんな簡単なことがわからなくなってしまうのでしょうか?

もちろん、お金があれば良い医療を受けられるとか、命の存続に寄与するサービスをお金で買えることはあります。しかし、命自体は金では買えません。人間の命だけでなく、虫でも植物でも生命を創り出すことはできないし、死んだ命を蘇らせることはできません。

破壊された自然もお金をかければある程度回復するかもしれません。しかし、一度失われた生態系システムが回復するとは限らないし、放射能で汚染された地域をもとに戻すことはできません。

そういう、”カネで買えないもの”まで経済的指標で計測できると思うという前提がそもそも間違っているのです。

議論はある前提を共有した上でないと成り立ちません。もちろんいろいろ現実と異なる前提を設定して思考実験することはできる(例えば”重量”があらゆる価値の指標になった世界とか)。ただ、それはあくまで仮想のお話で、現実的な意味はありません。命を経済的な価値で測れるという前提が間違っている以上、そこから続く議論もいわば机上の空論に過ぎません。

もちろんどのような”信仰”を持つのも自由ですが、命と引き換えられるまでに何かを崇め立て、他者に命との交換を迫るようになったら、それはもうカルトと言って良いでしょう。そういう意味では、行き過ぎたネオリベラリズムはカルトの域に達してしまうのです。

お金や経済的価値で測れるものでも、もちろん大切なものはありますし、それらをすべて否定するつもりはありません。ただ、すべてのものが経済的価値で測れるという考えに囚われてしまうのは、まさに命の無駄遣い。そんなバカな考えに囚われてしまわないで済むような社会をつくっていきたいと思うのです。

※似たような話は過去に何度も、多少異なる文脈で書いているので以下をご覧ください。



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