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【聖地学講座第263回「東大寺大仏建立に秘められたもの」】

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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
                vol.263
2023年6月1日号
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◆今回の内容
○東大寺大仏建立に秘められたもの
・良弁と実忠
・優婆塞という存在
・大仏の金はどこからもたらされたのか
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東大寺大仏建立に秘められたもの
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 毎年3月2日に若狭の小浜で行われるお水送り(送水神事)を、かつて15年にわたってガイドしたことをこの講座でも何度か触れました。若狭神宮寺境内にある「閼伽井」から汲まれた聖水が、遠敷川にある鵜の瀬という淵に注がれるのが「お水送り」で、ちょうど10日後、その聖水が奈良東大寺二月堂の下にある「若狭井」から湧き出し、これを汲んで若水として二月堂の本尊である十一面観音に捧げるのが「お水取り」です。

 若狭の土地神であった遠敷明神が、二月堂の修二会に遅刻して、そのお詫びに閼伽の水を送ると約束したのがはじまりとされます。この伝説では、遠敷明神の使者である黒白の二羽の鵜(興成明神)が若狭と奈良を結ぶ通路を開いたともされています。

 このお水送り-お水取りという二つの神事を繋ぐルートは南北に一直線で、そこに火まつりが並ぶことや、「二羽の鵜」つまり「二鵜(にう)」が水銀を意味する「丹生(にゅう)」を暗示するもので、若狭に産する水銀を奈良に送ることの象徴として、この儀式が行われるようになったと考えられます。

 この神事の創始者は、東大寺の初代別当である良弁で、神事の詳細を整備したのは良弁の右腕として活躍した実忠だといわれています。

 今回は、そんな私にとっても馴染み深いお水送り-お水取りの神事とその創始に関わる二人の僧侶を糸口として、東大寺とその大仏建立の背景を掘り下げてみたいと思います。


●良弁と実忠●

 若狭では、良弁がお水送りの舞台である鵜の瀬の間近の出身であると伝えられています。

「現在の小浜市下根来区白石の旧家である原井太夫家の次男に生まれたものの、赤ん坊のときに鷲にさらわれて行方知れずとなった。その後、巡礼となった母親が探しまわり、ついに東大寺の僧正となった良弁と再会する。母親は親子の対面を果したのち、奈良にとどまり、余生を楽しく過した。
 その母が、臨終のとき、どうしてもふるさと若狭の水が飲みたいと所望するので、良弁ははるか若狭の方向をむいて、末期の水が若狭井に届くようにと一心不乱に祈願したところ、遠敷川の清流がこんこんと湧き出てきた」。
 この伝説を由来として、原井太夫家はお水送りの世話役を務めてきました。

 いっぽう、「元亨釈書」では、良弁は百済氏の姓をもち、近江の志賀里もしくは相模の人とされています。そして、こちらにも良弁が幼いときに鳥に攫われたという逸話が記されています。

「良弁は、彼の母が観音に祈って得た子であったが、二歳の時に母が桑を摘んで、子供を樹蔭に置いていたら、たちまち大鷲が降下して児を捉えて去ってしまった。母は、鷲を追っていき、そのまま家に帰らなかった。その頃、奈良で義淵が春日神祠に詣でたところ、鷲が子供をつかんでいた。義淵は子供を家に連れてかえり、五歳にして学問を習わせたが、一を聞いて十を知るという具合であった。やがて成長すると義淵に法相宗を、さらに慈訓に従って華厳宗の奥義を学んだ」。

 このように出自ははっきりしない部分がありますが、良弁が義淵と慈訓に師事したことはたしかで、後に聖武天皇に重用され、東大寺の大仏建立を勧めたともいわれます。鷲に子供が攫われるという話は、「日本霊異記」や「今昔物語」にも登場するもので、貴種流離譚と同様のよくある神秘性を帯びさせるための箔付けといえます。

 京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置(かさぎ)山に笠置寺があります。麓には木津川が流れ、奈良方面からの月ヶ瀬街道と、京都方面から伊賀へ向かう伊賀街道の交わる場所でもあり古代からの要衝でもありました。

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