永遠(とわ)への夢

   < 序 >

 平和を希求する心、それは今の時代だから真剣に求められるようになったのだろうか。

 人類史は戦いの歴史でもあった。そして、いつの時代でも真剣に平和を希求する者たちがいた。だが、そんな者たちの願いも虚しく戦いは続いてきた。

 ただひとつ、一人だけの例外を除いて。

 彼は戦乱の世の真っただなかに生まれた。そして、戦乱の中心に置かれながらも、心から平和を希求した。

 そしてそれを実現したのだ。

 遠い昔、戦乱の世界から、多くの民を率いて逃れた彼は、海を渡り、理想とする平和の国を作り上げた。

 彼の想いとはるかな記憶は、未だその末裔たちの心に息づいている。


   < 若狭 >

 海辺の集落に生まれ、潮騒を子守唄にして育ち、そして老境に至るまで他の土地を知らずにここで暮らしてきた。

 毎朝海に出て、磯の香りや波音が身についた日常になっているのに、年に一、二度だけ、見知らぬ場所に迷いこんでしまったかのように異質に感じられることがある。

 今朝がまさにそうだった。

 めったにない濃い海霧が視界を閉ざしているせいかもしれないと老婆は思った。だが、海霧のせいだけではないことがすぐにわかった。

 異様に静かなのだ。

 海鳥の鳴き声や羽ばたきの音がないのは海霧のせいとも考えられるが、打ち寄せる波音もほとんど聞こえない。どんなに凪いでいるときでも、海流の関係でこのあたりの磯には波が絶えることがない。しかし、その波がまったくないのだ。

「こんな日は、さっさと仕事を済ませて、早く家に戻ったほうがいい」

 老婆は胸騒ぎを覚え、誰に言うともなしにそう呟くと、曲がった腰をさらに曲げて、黒曜石の刃がついた小刀を巧みに使って、岩に張り付いた岩海苔を剥がし始めた。

 日焼けした老婆の頬には両側に渦巻き模様の刺青があったが、もうだいぶかすれて、高い頬骨の下にできた影のようだった。着古した筒袖の麻の一重の着物にも、全体に渦巻きの墨文様が描かれているが、これもだいぶかすれていた。ほとんど白髪の長い髪を団子にまとめ、まだらに朱の漆が残る櫛で止めていた。

 もういい歳のはずだが、動作は機敏で、腰に括りつけた籠に剥がし取った海苔を入れていく。腰を曲げてうつむいたまま、裸足の足の裏に吸盤でもあるように、滑りやすい岩の上をまったく危なげなく移動していく。

 あっという間に、葛の蔓を編んで作った籠がいっぱいになった。

 老婆は、その籠の底に皺だらけで骨と皮ばかりの手をあてがい、収穫物の手応えを確かめるように持ち上げると、満足気に笑った。そして、振り向いて、やって来た方に戻り始めた。

 少し霧が晴れ、磯の景色が少し先まで見通せるようになった。

 しかし、まだいつもと違う胸騒ぎの感覚はそのままだった。

 老婆は、小走りで岸辺へ向かっていく。

 侵食された岩の谷間を何度か飛び越えたところで彼女はふいに立ち止まった。磯溜まりになった岩の隙間に、何かの気配を感じたのだ。

 注意深く磯溜まりの中を覗き込む。

 人の気配を感じた蟹か魚が咄嗟に岩陰に隠れたのだろう。

 岩海苔だけの朝餉では寂しいが、これに一品、蟹か魚が加われば、まだ幼い孫たちが喜ぶだろうと思った。

 今度は少し慎重に足がかりを探して降りていった。水面近くまで降りて岩陰を見ると、やはりそこに何かが隠れていた。

 そっと息を殺し、さらに降りて、水面から一気に手を差し入れた。ちょうど片手で鷲掴みにできる胴の太さだった。しかし、予想していたよりもそれは軽かった。流木を掴んだと老婆は思った。実際、それは木っ端のようだった。

「なんだ、魚と木っ端の見分けがつかないなんて、わしも耄碌した」

 老婆は、手にした木っ端を投げようとした。しかし、それが鮮やかに装飾されていることに気づいて、すんでのところで投げるのをやめた。

 よく見ると、それは人の形をした木像だった。

 頭に不思議なものを載せ、見たこともない着物を羽織っている。

 木像が頭に載せていたのは、金の装飾を縁に垂らした冠で、衣裳は極彩色の生地に龍と鳳凰をあしらった皇帝服だった。しかし、こんな像をはじめて見た老婆には、それが何であるのかは理解できなかった。ただ、うわさに聞く「神」ではないかと思った。

 昔、この浦に、人型をした小さな神が上陸し、専用の小屋を建てて安置すると、しばらくして話しだし、漁の仕方を教えてくれたという。

 そんな話を老婆は、自分の祖母から聞いた覚えがあった。咄嗟に祖母の話を思い出し、これが神というものだと連想したのだ。

「蟹や魚よりもいいものを見つけた。この神も何か教えてくれるかもしれない」

 と、せっかく採った岩海苔を半分捨てて、この木像を代わりに収めた。そして、善は急げとばかりに、磯溜まりから這い上がった。

 海霧がだいぶ引いていた。

 老婆は、腰に手をあてがい、周囲を見渡した。

 今度は、海の向うに何かが見えた。

 突然、けたたましい海鳥の鳴き声が飛び交い、海の方から老婆の頭をかすめながら陸へと飛び退っていく。何かに怯えてパニックを起こした鳥達が我先にと逃げまどっているようだった。

 老婆も、ただならぬ気配を感じた。

 緞帳を開くように霧が晴れ、小さな浦を真っ黒な船団が埋め尽くしていた。

 老婆は言葉を発することもできずに後ずさり、その場にただ立ち尽くした。

 沖合の船から何艘か小舟が近づいてくる。先頭の小舟の舳先には、立ち上がったまま微動だにしない黒い人影がある。小舟には10人ほどが乗っていて、両舷に突き出した櫂がリズミカルに水面を掻いて、あっという間に老婆の傍らに寄せた。

 全身を黒い鞣し革の鎧で包み、太い太刀を腰に垂らした男が軽々と老婆が硬直して立っている岩に飛び移った。

「ここは、何という土地だ?」

 男が図太い声で老婆に尋ねる。

 しかし、老婆にはその言葉がわからなかった。

「言葉が通じぬか」

 と苦笑いしながら、男は老婆が手にした像に気づいた。

「それを見せてくれぬか」

 男は像を指さし、手を伸ばす。老婆は、抱きしめていた木像を手に持ち替え、恐る恐る差し出した。

「陛下、これは先遣隊の守護神像ですね」

 いつのまにかもう一人の男が先に降りた男の横に立ち、そう話しかけた。この男は焦げ茶色の鎧を身に着けている。

 陛下と呼ばれた黒鎧の男は左手に持った木像を右手指差し、さらに老婆に指を差し換えて尋ねた。

「この像をどこで見つけた?」

 老婆は、先ほど木像を見つけた磯の潮溜まりを指差す。

 黒鎧の男は老婆の指差す方を見て、嘆息するように鼻から長い息を吐き、茶色い鎧の男に言った。

「三日前の嵐で難破したんだな。だが、神像が我々が正しい場所に到着したと告げてくれた」

 茶色い鎧の副官は、目を輝かせながら司令官に言った。

「すると、やはりここが」

 司令官は、木像を握りしめ、力強く答えた。

「そうだ、ここが蓬莱島に間違いない」

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