第3章 滝行の世界

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心構え

「いいか、よく肝に命じておけよ。滝行でもっとも危険なのは、行を終えて戻るときなんだからな。滝に打たれてすっかり浄化されたおまえたちの魂、その魂から清浄さを奪い取ろうと、おまえたちに悪霊が憑いてくるんだ。よく見渡してみろ。この谷には、悪霊たちが渦巻いているだろ。あいつらは、自分たちが救われるために、おまえたちの魂を喰らおうと、待ち構えているのだ。だから、滝行が終わったら、今より尚いっそう気を入れて、ここまで戻ってこなくてはならない。わかったか!」
 滝行に入る前、先達はことさら厳しい調子で、みなを恫喝する。

 この先達の言をそのまま真に受ければオカルトになってしまうが、じつは、この言説には修験道の長い歴史が作り上げた巧みなプログラムが隠されている。

 滝に打たれるという行為は、変性意識状態=無我の境地に至るためのもっとも確実な方法の一つだ。

 気合とともに、冷たい水が落ちる滝の下に身を躍らせると、最初に肉体感覚を強烈に意識する。白刃を突き立てられるような冷たさ、ハンマーで打ち据えられるような水圧、そして耳を聾する轟音……そこには、肉体的「苦」の要素が凝縮されている。その苦痛を払うために、一心不乱に「六根清浄」を唱え、印を結んだ手に渾身の力をこめる。

 六根清浄とは、五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)と意識を清浄にするという意味で、苦行によって、五感と意識に染みついた穢れを払い落とし、ひたすら透明に、無に向かいながら自然と同化していくイメージが込められている。

 滝に打たれ続けるうちに、五感の一つ一つが削ぎ落とされてゆき、自分の唱える「六根清浄」の声が遠くから聞こえてくるようになる。そして、その声も消え、「無感覚」が訪れる。

 水の冷たさも、打ちつける水圧の痛さも、逆巻く轟音も消え失せ、不思議な静寂の中で急に意識が物理的な呪縛を振り払って、宙に漂い出し、世界を一段上の次元から見下ろしている感覚になる。それはよく言われる「幽体離脱」のように、体から飛び出した意識が体の外側にいて肉体を見下ろしているといったものではなく、もっと漠然としていて、具体的な光景が見えるわけではなく、ダイレクトに意識が知覚しているといったほうが近い。さらに言えば、自分の肉体といったミクロな世界ではなく、現象世界の全体がアプリオリに知覚できてしまうといった感覚だ。しかも、意識も「個」としての自分の意識がそれを知覚しているのではなく、現象世界の外側にある次元全体が意識を持ち、自分はその意識の一部として知覚しているような状態だ。

 そのうち、「そうか、世界はこうできているのか」と、一段上の次元から、現象世界全体を鷲掴みにして、悟りが開けたように感じられた瞬間、「喝!」という先達の声で、再び痛みと冷たさを耐える体に引き戻される。

 修験道だけでなく、あらゆる修行の中で、もっとも用心しなければならないのは、修行の初期段階で体験する変性意識がもたらすこの「悟り」の感覚だ。修験や密教ではこれを「生悟り」と呼ぶ。現象世界を超越した何かがあることを知覚することは大切だが、それに囚われてしまうと、変性意識のジャンキーになるか、メシア思想にとりつかれてしまう。あるいは、その場で現実に戻ることを忘れ死に至ることもある。慣れた修行者なら変性意識の状態にあっても体と意識の間に紐帯を保っていて、いつでも意識を肉体に引き戻すことができる。

 未熟な行者を注意深く見守り、常に「こちら」の世界から行者の意識の手綱を握っているのが先達の大きな役目だ。

 滝行を無事に終えた後も、未熟な行者の意識は、まだどこか虚ろで、正気を取り戻してはいない。そのため、足場の悪い滝行場では転落や滑落の危険がつきまとう。そこで、先達が滝行に入る前に恫喝した一言が効いてくる。滝から離れた行者は、まだ肉体感覚が鈍くなっているから、誰でも一歩や二歩は必ずよろめく。そのとき、先達のあの恫喝の言葉が、突然、鮮烈によみがえる。そして、底知れぬ恐怖とともに、意識が覚醒する。

 御嶽山では、独自の修験道が古代から発達し、その行者が先達となって全国各地に御嶽講を広めていった。そして、近世から近代にかけて、多くの参拝者が訪れるようになった。

 3000mを越す大きな独立峰である御嶽山には滝行場も含めて、修験者の修行場がたくさんある。中でも代表的な滝行場が清滝だ。

 王滝口の麓から、御嶽参拝の記念に立てられた無数の石柱が林立する異様な風景の中を進み、道がつづら折れになってしばらくすると深い原生林の中に朱塗りの欄干の橋が見える。その先に、落差20mはありそうな水量豊富な滝がある。これが清滝だ。

 滝への登り口には水子供養の小さな地蔵の群れがあり、これから滝へと向かう行者をじっと睨んでいる。深い樹林に囲まれた道は昼でも暗く、滝からの水しぶきが苔蒸した地面を濡らして滑りやすい。先達に率いられた行者たちは、足元を見極めながら、この道を一列になって登っていく。

 下から見えた朱色の欄干の橋の袂には、滝の水が流れを作る谷間に向かって板を張り出した小屋がある。ここで男は褌ひとつになり、女は白い襦袢に着替える。身支度ができて小屋を出ると、滝の袂にあるお堂にお参りをして、いよいよ滝に身をまかせることになるわけだが、ここで先達から言い渡されるのが冒頭の言葉だ。

 清滝の行場全体に漂う寒々とした雰囲気に、先達の「悪霊が、おまえたちの魂を喰らおうと待ち構えている」という言葉を重ねあわせて身震いする。

 純粋な修験行者でもない多くの一時的な滝行者たちは、それぞれが自分なりの思いをもって滝に入っていく。病苦から解放されたいと願う人もいれば、人間関係に疲れてそれから逃れるためにやってきて、さらに滝に打たれることで全てを忘れようとする人がいる。事業が成功するように、あるいは就職先が見つかりますようにと、軽い願掛けの気分でやってくる人もいる。

 そうした誰にでもある俗念を胸に滝に入った人たちが、滝に打たれ、苦痛を乗り越えることで俗念を洗い流され次第に無我の境地に入っていく。

 自分の肉体を意識しなくなったとき、魂は自由となり、何か大きな意識……ユングの言い方なら「集合的無意識」……と一体化していく。滝を流れ落ちる水が川を作り、海へと下り、蒸発して雲となって再び地上に降り注ぐ。そして、この滝を流れ落ち、再び海へと向かっていく。そういった循環の中に自らも組み込まれ、無限の宇宙の中で輪廻を繰り返していく。それが、理屈ではなく突然の確信として閃き、魂は深い深い静寂と安心感に包まれる。

 この瞬間、「祈り」というものが、個人的願望の成就を願うようなものではなく、自然と一体であることを確信し、自分を含む全てのものに感謝することだと悟る。

 だが、先に書いたように、この宗教的ともいえる恍惚=変性意識状態は危険も孕んでいるのだ。

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 吉野から熊野まで、紀伊半島の中央部を南北に縦断する「大峯奥駆け」と呼ばれる修験道の修行ルートがある。通称「果無山脈」と呼ばれる紀伊半島のほぼ全域を覆う山地は、その名のとおり大海原のような広大な緑の山並みが続いている。その最奥部を貫いているのが大峯の奥駆けルートだ。

 吉野金剛峯寺あるいは吉野の洞川(どろかわ)を出発点に、紀伊半島中部を南北に貫く大峯山系の稜線を山伏姿の修験者が風のように疾走していく。途中には靡(なびき)と呼ばれるポイントがあり、ここで休息したり、篭って行を行う。そして、最終的には熊野本宮、熊野那智大社へと辿り着く(宗派によって、この逆のルートを辿るものもある)。

 那智大社は、落差133mの那智の滝そのものが飛龍権現というご神体とされる。

 滝壺の近くから滝を見上げると、岩肌に当たりながら流れ落ちてくる水流が生き物のように見える。滝壺からは水しぶきが雲のように舞い上がり、日が射せば鮮やかな虹が現れる。水しぶきの雲と虹の中を流れ落ちる一条の滝をずっと見つめていると、いつのまにか、その向きが逆転して、上へ向かって昇っているように思えてくる。さらに見続けていると、水流そのものも日に輝き、いくつもの小さな虹に彩られていて、それが手足のように見えてくる。そして滝は雲を割って昇天していく龍となる。

 長く困難な大峯の奥駆斗そう(とそう=本来の意味は雑念を捨て、修行に専念する意味だが、修験道では山野を駆け、野で様々な修行を行うことを言う)を終えた行者は身も心も鋭敏になっている上に、熊野の自然のリズムに体がすっかり同化している。彼らの目には、那智の滝がまさしく本物の飛龍に見えたはずだ。

 そして、この那智の滝には「捨身行」が伝えられている。

 大峯奥駈修行の最後の仕上げとして、自らの身を那智の滝から投げる。それが捨身行だ。古代から中世にかけては盛んに行われたらしい。それが江戸期に入ると少なくなり、江戸末期に再び増える。明治になり維新政府が廃仏毀釈とそれに連動した修験道禁止令を発布して厳しく取り締まるようになるとほとんど行われなくなる。

 明治政府の廃仏毀釈と修験道廃止令は、徹底的な文化破壊として悪名が高いが、長く続いた大峯の奥駆もこれによって一気に衰退してしまう。

 それを再興したのが、実利(じつかが)行者だ。実利行者は天保14年(1843)に岐阜県坂下に生まれ、御嶽講に入って御嶽山で修行を積み、25歳で出家すると大峯に入るようになり、ここで修行する傍ら、廃れかけた奥駈道を整備していく。

 実利行者は、自らの悲願であった大峯奥駈の再興がかなうと、那智の滝で冬篭りし、滝上の石の上で何日も坐禅を重ねた後、明治17年4月21日、捨身行を敢行する。彼の体は滝壺に落ちたまま浮き上がらず、彼の信者らが滝壺に潜ってみると、そこで坐禅の姿のままの亡骸を見つけ、これを引き上げたと伝説化されている。

 一般的に捨身行の目的は衆生済度平等利益の誓願にあるとされる。しかし、これは建前にしか思えない。実利行者も最後の最後まで衆生済度平等利益を思い、経を唱え続けていたかもしれない。だが、彼の意識は、宗教的恍惚の絶頂に達したその時、自分が落ちて死ぬことでその身にかえて誓願を成就しようというよりも、那智の滝を駆け上ってくる飛龍の背に飛び乗り、そのまま雲を突き抜けて昇天する気分ではなかったかと思う。

 空海も若い修験修行者の時代に、自らの信仰の是非を神仏に委ねようと崖から身を投げたと伝えられる。空海はそのとき無傷で助かり、その奇跡から全身全霊を信仰に捧げる決意をしたという。だが、空海は後に、自分の身を捧げる修行を全面的に否定している。

 空海は「即身成仏」という言葉を使い、これが文字通りに受け止められて、自ら意図的に入滅することのように解釈されているが、空海自身は「即身成仏義」の中で説明しているように、真言密教の行法によって瞑想することで仏の悟りを得ることが即身成仏であると言っているだけで、入滅して命を捧げることなどとは一言も言ってはいない。

 空海は道教や神仙道にも非常に長けた人だが、彼は薬物などによって変性意識状態に陥ることの愚と危険性を説いている……空海自身が錬丹術を用いて不老不死の薬を調合しようとして失敗し、水銀中毒で死んだという説もあるが、これは個人的には空海が仕掛けたフェイクだと思っている。

 宗教的恍惚が開示する祈りの本質、一方で、そこには修行者を待ち構えるワナもある。

 宗教的恍惚の絶頂の中で死を迎えれば、それは個人的には最高の最期といえるかもしれない。しかし、それでは修行者の自己満足だけで完結してしまい、誓願の意味も、そもそもこの世に生を受けたことの意味も中途半端なままで棚上げされてしまう。宗教的恍惚…自然と一体であると感じる変性意識状態…を垣間見せてくれる滝行では、常にこちら側に戻れるという状態を担保していなければならない。しかし、そこがとても難しい。そう考えると、先達がリードする修験道の方法論は、非常に洗練されたものといえる。

 修験道に関しては、10章『山岳信仰』で、さらに詳しく触れたいと思う。

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■参考■

●御嶽山
 長野県と岐阜県の間にまたがる標高3063mの御嶽山は、古くから山岳信仰の聖地として信仰の対象とされてきた。江戸時代後期までは、入山が厳しく制限され、100日間の重潔斎を済ませた「道者」と呼ばれる修験者のみが登拝を許された。
 江戸時代後期、覚明と普寛という二人の修験者が一般登拝の道を開いた。これを機に、江戸末期から明治にかけて、各地で御嶽山を登拝する御嶽講の活動が活発になり、にぎわいをみせた。今でも、御嶽教の聖山とされ、全国各地から登拝の講が組まれている。
 山容が大きく、降水量が多い気象条件のため「御嶽山は滝の山である」と言われるくらい滝が多く、滝行も盛んに行われている。本文で紹介した清滝の他に新滝の修行場が有名。
 御嶽山への登山口は王滝口、黒沢口、開田口、小坂口、日和田口の五つがある。このうち黒沢口が江戸時代後期に覚明が開いた登拝の道で、今でも登拝登山のメインルートとされている。
・交通
 清滝へは、JR中央本線木曽福島駅からバスで王滝村へ。その先はタクシー
 黒沢口へは、JR中央本線木曽福島駅からバスで御岳ロープウェイ

●那智の滝
 熊野三山の一つ熊野那智大社の別宮である飛龍神社のご神体とされる。落差133m、一段の滝としては日本一の高さを誇る。那智山中には、多くの滝があり、そのうち那智四十八滝と呼ばれるものは、古くから滝行の修行場だった。本来は「那智の滝」といえば「那智四十八滝」を指すが、今ではもっとも規模が大きくポピュラーな一の滝を指すようになった。本文で紹介した実利行者をはじめ、かつては捨身修行がしばしば行われていたという。同じ那智山中にある妙法山阿弥陀寺では、永興禅師と同行の禅師が捨身修行に望み、死して骸骨となっても法華経を唱えていたと『日本霊異記』にある。『日本霊異記』の記述はフィクションだが、モチーフとなったような捨身修行がこの地で行われていた事実を物語っている。
・交通
 JR紀勢線紀伊勝浦駅からバス、タクシー

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