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俺の自伝 高校時代2

毎日バイトにあけくれ、俺は充実した日を過ごしていた。

嫌だったのが高校のテストだ。

高校のテストの時は、いいのかわるいのか、偏差値55くらいの高校だったので、テストがまぁまぁ難しい。

勉強しないと留年になる。

その時はバイトをセーブして赤点は取らないように勉強をした。

テストが終わるとまたバイト、月に13万円稼いでいたお金は何に使ってたかというと、ほとんどは服を買っていた。

週に5日はバイトしており、平日しか休みはない。

そのため、平日バイトが休みの時は、大阪の心斎橋のアメリカ村によく行った。

そこで服を毎週買っていた。

あとは、バイトが終わった後に遊ぶために使った。

ケチだったので人におごったりはしなかった。

高校3年生の時、受験のシーズンが来た。

理由はないが、関関同立以外は行かないという目標があったので、勉強を始めた。

バイトは2学期でやめたが、その前にいつも遊んでいた友人の下田に事件が起こった。

下田は、一番仲が良かったバイト仲間だった。

中学校はとなりで、高校は別のかなり不良の学校だった。

彼自身も不良で中学の頃は喧嘩をしまくっていて、喧嘩が強くて有名だったようだ。

俺の中学校は公立だったが進学校レベルで、不良がいなかったが、隣は結構不良がいた。

下田の家は母子家庭でバイトの近くに母親と一緒に住んでいて何度か家にも遊びに行ったことがある。

彼はDJをやっていて、DJ器具がたくさん家の中にあった。夜中に大きな音でやっているので近所から苦情が来ると笑っていた。

最近彼女ができたときいていて、彼女には会ったことがなかったが楽しそうというか、幸せそうだった。

彼はカラオケがすごくうまかった。当時はやったKinKi Kidsやイエローモンキーなどを完璧に歌えた。俺もカラオケが好きだったので、毎日のようにバイト終わりにカラオケに行っていた。

高校は途中でやめてしまって、お昼も寿司太郎で働いていた。

寿司太郎の中でも仕事でいろいろ競ったり、ふざけたりしていた。

俺はアルバイトながら、寿司を握らせてもらえるまで出世?した。

先に10皿早く握れる競争をしたりもした。

受験勉強が始まり、バイトも少なくなり、2学期にはやめたころ。夏休みにの夜中、ハザードランプをつけずに荷物の積み下ろしをしていたトラックに原付で突っ込み、亡くなった。

葬式では彼の作曲した曲、ラップがながされていた。

葬儀には行ったが、彼の顔を見ることはできなかった。

信じられなかったし、信じたくなかった。

俺には高校に友達がいなかったが、バイトでは一番仲が良く、一緒にいて楽しかった友達がいなくなったことは信じられなかった。

バイト先の社員さん、バイト仲間みんな葬儀に来ていた。みんな今思えば若かった。

社員さんでも22歳とかだったから。

みんな信じられなかったと思う。

しばらく、もやもやっとした喪失感が続きながらも、受験勉強をしながら高校生活を過ごした。

受験は関西大学を8回・8学部受けた。

1回3万円する受験費用を親は出してくれた。

結果は惨敗。

私は浪人することを選んだ。

実家は大阪で中古バイクや中古車を扱う自営業だ。

当時バブルが崩壊して大変だったのに、浪人の際の予備校のお金、受験費用、お小遣いなどすべて何も言わず出してくれた。

その当時私は感謝ということをしていなかった。

私の浪人生活がスタートした。予備校は大阪の緑地公園駅という駅のすぐ近くのS予備校だ。

予備校生活1年間に続く。

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