俺の自伝1・高校生時代その1
俺は高校生1年生の1996年4月にスケボーで足を複雑骨折し、手術を受けた。
入学してからすぐだったので、友達もあまりできないまま、入院、手術。骨折も今までしたことがなく、私の住む大阪のとある市のめちゃくくちゃ古い市民病院で手術を受けた。
左足のヒ骨という骨が砕けており、骨片が足の中に飛んでいて手術が必要だった。
手術は下半身麻酔にて行われた。
背中に注射をぶっさして下半身に麻酔をかける。麻酔はしっかり聞いていたので痛みはなかった。
俺の足にはボルトが数本はいり、手術が終わった。手術後は非常に痛かったことを覚えている。
1週間ほど入院し、松葉杖をついた状態にて退院。俺は高校に再び通い出した。
松葉杖がとれるまで、母親が毎日車で送迎してくれた。
ありがたいことだった。ただその時はそのことを感謝していなかったと思う。反抗期だったようだ。
高校に戻ると、元々人付き合いが上手いわけではない私は孤立した。
身長が180cmくらいあり、体重もそこそこあったので、いじめられたりすることはなかったが、すでにグループができており孤立感があった。
部活に入ることもなく、毎日家と高校の往復を繰り返し、そのうち足が治った。
足が治ってしばらくして、タコっぽい顔をした坪田君にラグビーに入らないかと誘われた。
体大きいから誘われたのだろう。小学校は野球、中学校はバレーボールをしていた私はラグビーには興味もなかったし、バレーボールも友達がその部活に入るからということで、入っただけで部活あまり興味がなかったので、ラグビー部に入ることはなかった。
俺は中学校から一緒だった藤田君の紹介で、現在2020年では、大手回転寿司チェーンに成長した寿司太郎でアルバイトを開始した。
部活をしていなかった俺には部活のようで楽しかった。
初めは行った時は洗い場から開始、寿司太郎は超繁盛店で毎日満席だ。寿司太郎は、現在の業態とは違い、軍艦巻きはロボットで、通常の握りは店の社員が手で握っている。
アルバイトでも数年バイトしてステップアップしていくと寿司を握らせてもらえる。
当時アルバイト長という役職はなかったが、そう言っても過言ではない立ち位置のアルバイトで高田さんという人がいた。高田さんは大学生で高校生の時から当時の寿司太郎の正社員で副店長の小島さんと仲が良く高校生の時は暴走族をしていたという人でいつもテンションが高く面白かった。
そして寿司を握るのが異常に早かった。
俺は洗い場からスタートし、河田さんという人に丁寧に洗い場の仕事を教えてもらったが最初要領を得ず、遅かった。
繁盛店なので、どんどん洗い物がたまり、お皿が溜まっていった。
その頃の店長の西村さんからは仕事ができないと思われ、怒られた。ムカついたし、悔しかった。
正直やめようと思ったが、続けた。元々多少は器用だったので、
1週間程度で洗い物はスピードアップし、要領を得て洗い物だけではなく出汁場についても教えてもらえるようになった。
ここで、寿司太郎の中を簡単に説明すると以下のような仕事の割り振りがある。
1、洗い場
2、出汁場
3、軍艦
4、ホール(基本女性担当)
5、握り(4番手、3番手、真ん中、先頭)*真ん中が一番クラスが上、次が先頭、3番手、4番手となる。
人数が少ない時は出汁場と洗い場を兼任する。出汁場は主に赤だし、うどんなどを作る。
俺はしばらくは洗い場、出汁場の仕事をこなしていった。先輩たちがいるので、その人たちがいる限りはなかなか次の軍艦には進めない。
新人が入って、先輩が次のステップに進むか、大学に進むなりしてやめないとすすめない。
仕事ができるようになると西村店長に認められた。西村店長は小柄で、当時22歳だったが、高校生の俺にとっては怖かった。今でも覚えているが、あまり仕事ができない時に、他の先輩たちが西村店長のことを
「西村さん」と呼んでいたので、俺もそのように呼んだら、
「お前が西村さんと呼ぶな、気持ち悪いから。」
と言われて恐怖だった。それ以後「店長」と呼ぶようになった。
仕事ができるようになると西村店長は俺に優しくなった。
俺は軍艦の仕事を教えてもらえるようになった。
軍艦は、ロボットが作ったシャリ玉を海苔に巻いて、その上にいくら、つな、エビサラダ、カニサラダ、黄金いか、納豆などの寿司ネタをのせて、流していく。
人気の商品をたくさんレーンの上に流していかなければならない。すでにたくさん流れているものを流すのではなく、人気の商品を先読みして流していく必要がある。
これもスピードと美しさが重要だ。
軍艦も1ヶ月から2ヶ月するとマスターした。
軍艦を担当する人は細巻き、太巻きも担当する。
これもコツがいる。あまりシャリを入れすぎるとうまくまけないのである。巻き寿司は軍艦に比べて、時間がかかる。
巻き寿司の日はかなりの数の巻き寿司を相当なスピードで巻いていく。
当時回転寿司自体が非常に少なかったので、そう等忙しかった。
平日の売り上げは小さい店なのに関わらず、25万円、土日となると50万円を超えていた。
軍艦巻きや巻き寿司、赤だしを作る技術だけではなく、寿司太郎では調理場を清潔にすること、礼儀、仕事のスピードの大切さなどを学んだ。
そして、俺はバイトにどんどんハマっていった。仕事をうまくできることにやりがいを感じたし、同年代の友達ができた。
バイトは17時から22時半〜23時までだった。
当時は労働基準法などを厳守するバイト先はなかったので、時給は750円スタートで、深夜割り増しもなかった。
今その当時のバイト先は上場しているので、今は法律を守っているが当時はそうではなかった。
バイトが終わり深夜になってもバイト先でたむろした。
違う中学校だった友達ができ、その友達も一緒に寿司太郎で働き出したので、バイトが終わってから吉野家に行き、その後カラオケに行って深夜まで遊んだ。
高校ではほとんど寝ていた。
高校が終わったらバイトに行き、バイトが終わったらメシを食いに行ったり、ボーリングに行ったりカラオケに行ったりして遊んだ。
高校の成績は赤点ギリギリだった。
当時アルバイトで毎月13万円ほど稼いでいた。結構な金額だ。
本業であるはずの高校生活はそこそこに、バイトばかりして、友達と遊んでいた。
高校時代は、そうこうしているうちにいつもバイト終わりに遊んでいた友達に事件がおこり、浪人生活へとその2へ続きます。
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