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精神論の限界①

タイトル通り、精神論の限界というお話をさせてもらいたいのですが、その前に私自身の過去を少し振り返っておきます。

■幼少期〜学生時代

小学3年生の頃に少年野球を始め、中学、高校と野球を続けました。野球は夏の大会前に辞めてしまいましたが・・。

今でもお誘いがあればソフトボールや草野球に参加もしますし、野球観戦も大好きです。少年団チームの監督も3年半ほどやっていました。

少年時代から野球という、日本では戦後まもない頃から発展した、国技ともいうべきスポーツに精通してきましたが、僕らは根性論の最後の世代ではないかと思います。

小学生の頃でいうと、うさぎ跳びやらされてましたし・・。

高校時代は練習中に水を飲んではいけないという・・今となっては考えられない環境で、真夏にダブルヘッダーの練習試合が終わった後、個人ノックを受け続け、熱中症でグランドで倒れそのまま救急車で運ばれたこともありました。

生死をさまよう位の、そんな状況ですら、周りは根性がないみたいな雰囲気になっていて、自分自身も情けないなみたいな感覚に陥るわけです。ある種軍隊教育に近かったように思います。

■就職:板前編

高校卒業後に、就職したのは板前の世界でした。実家が寿司割烹屋を営んでいたので小さい頃からお店を継ぐ=板前になるでした。

はい、お気づきの通り、精神論の最たる職場ですw

1998年当時、父親の関係で大阪の板前を斡旋している「部屋」という組織にまず属しました。おそらくこの「部屋」という制度も今はないと思います。この「部屋」から、大阪や全国の繋がりのある飲食店、料亭、ホテルなどに振り分けられて行きます。

派遣社員に近いかもしれません。要はこの「部屋」に給料をピンはねされるわけです。そして僕は大阪市内の某ホテルの中の料亭に配属となりました。

料亭と言っても、通常のお店の営業と、宿泊客への食事提供(朝食など)、披露宴などの食事提供も一括してその板場が仕切ります。

なので、朝は4時に板場に出勤、夜は12時過ぎまで仕事です。調理師学校を出ていないので、見習い、丁稚奉公のような扱いです。休みは月に一回程度、働きづめで、当時の僕の初任給は手取り12万円を切っていたと記憶してます。それでも初めてもらった給料は嬉しかった。

ですが板前を数年続けた後に、諸事情あり板前を辞めました。この辺りはいつかどこかで書こうかなと。

■転職:営業マン編

で、次の仕事は営業職、しかもほぼ完全歩合性の会社でした。

はい、お察しの通り、気合と根性の巣窟ですw

朝礼では、みんなが挨拶で後ろで手を組んで、体を若干反らして「ざーーーーーーーーっす!!!!!」みたいな「今日も売上叩くぞーーーーーーー!!!」的な。なんとなく想像するあの感じです。

テレアポでは、アポイント取れるまで受話器と手をガムテープで巻き付け、取れるまで外さない。アポイントが取れない人は机の上に正座してアポイント取りをしてました。

今思えばすごい世界観だし、2020年現在では完全にコンプライアンスにかかりますねw

ただ、ワタクシ小学生の頃から上記のような生活をずっと送ってきてましたので、むしろここで本領発揮するわけです。そりゃ〜もう、やればやるだけ稼げる訳ですから、気合と根性と持ち前のトーク力で?(笑)とんとん拍子に営業トップになりました。

次は部下が出来てチームを率いるわけですが、自分がやってきたことや、この組織での常識を後輩や部下に伝達をしていくので、気合と根性論だけを持ったチームリーダーが爆誕します。この頃、世の中は(2003年頃)アナログからデジタルに移行している時期でしたが、このチームでは今だに顧客台帳的なものを紙ベースで記載し、管理をしていました。デスクにPCは一台もありませんでした。

この後の私の職歴は飛ばしますが、振り返ると幼少期から20代半ばまでこういった環境にいると、自然と全ての判断基準が気合、根性などの精神論になってしまいます。そして、この癖はなかなか抜けません。

合わせて、こういう人に限り、正義感がとても強くなります。自分のモノサシでの正義感なので、僕の先輩は「無邪気な正義感」と名付けていました。まさにそうです、悪気がない正義感なので、余計にややこしいのです。

少し時間を前に進めると、今のRETRYという会社を起業したのが9年前です。創業当時の武器はやはり「気合と根性」そのものでした。

少し長くなったので、ここで止めます。この後の「気合と根性論」がどうやって限界になったのか、そして僕が経験をした、精神論からどうやってマインドを変えていくのかなどを、近日中に書きたいと思います。











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