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「新解釈・桶狭間の戦い」を桶狭間古戦場公園にある地図でご説明

「麒麟がくる」では6月の7日がどうやら桶狭間の戦いの回のようですが、今の暦で6月12日(当時の暦では5月19日)が合戦の日となりますので、いいタイミングかと。桶狭間古戦場保存会が作成され、古戦場公園に掲げられている案内図に、恐縮ですが少し手を入れて「新解釈・桶狭間の戦い」を解説させていただきます。義元のスタンスで書いてみます。

今川義元は5月18日に知立から鎌倉街道ではなく、当時はまだ東海道とは呼ばれていなかった海岸沿いの道を通って沓掛村のはずれで東浦街道へ入りました。さらに大脇村から大高道へ入り、桶狭間の南を通って、丸根砦を威嚇しながら大高城へ入りました。このとき、丸根砦の南にあった水野信元の正光寺砦は事前の連絡どおり撤退していました。

5月19日は夜が明ける前に現在の大高緑地公園内に残る小川道を通って漆山に移動し、丸根を後援に来るはずの信長を待ち構えて陣を置きました。夜明け(6時ごろ)とともに松平元康(家康)らが、丸根砦・鷲津砦を攻撃します。丸根砦を陥落させた元康は大高城で休息しました。

元康が丸根砦を攻略しても信長が来ないので、大高城を囲む砦の排除という出陣目的を達成した義元は繰退(本陣を移し、敵を威嚇しながらそこへ後続部隊を撤収させ、さらに本陣を移しそこへ後続部隊を撤収させて撤退していく作戦)を開始します。本陣は漆山から高根山へ移されました。

高根山から見ているとやっと信長がやってきました。その時、撤収中の部隊へ佐々・千秋らが襲い掛かりましたが、今川方はこれを一蹴しました。義元は気分よく、さらにおけはざま山まで本陣を撤退させました。ここではもう信長を直接見ることはできませんが、高根山にはまだ信長を監視し、威嚇する兵が残っており、信長が攻撃してくれば対応できる体制でした。

すると突然の大雨、大嵐となり今川軍は騒然となりました。30分ほどたち、やっと雨が上がったと思っていると、高根山からの監視を風雨によって逃れ、東海道筋へ迂回した信長が、突然、本隊右翼に北側から攻撃をしてきました。昨晩大高城まで移動し、夜明け前から移動していた義元勢は疲労しており、雨に打たれたこともあって士気が上がらず、ついに義元が本陣近くの山の上で討たれ、崩れた兵も桶狭間の深田などで逃げ遅れ、次々に討ち取られてしまいました。

以上が、「新解釈・桶狭間の戦い」です。18日の義元の移動は赤いライン、19日はオレンジ色のラインとなります。

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