桶狭間の謎が解ける!? 新解釈・桶狭間の戦い まとめ その2

10 『新解釈・桶狭間の戦い』に関して書いているのだが、先にこの説の画期的な部分を述べておきたい。それは今川義元が一か所に留まっておらず、移動していたということ、そしてその移動目的は撤退(繰退)だったという点だ。したがって、本陣は移動しながら3ヶ所にあったことになる。#信長 #信長公記 #桶狭間

11 義元が尾張までやってきた目的も、古くは上洛と言われていたが、昨今、さすがにそれを支持する人は少ない。『新解釈』においても、上洛説は取らない。では、目的は何だったか。これもあらかじめ書いておいたほうがいいと思うが「大高城の開放」がその目的であった。#信長 #信長公記 #桶狭間

12 尾張に築いた今川方の最前線である大高城が信長側の砦によって取り囲まれ、兵糧にも窮したため、それを開放するために自ら乗り出し、それを成功させたあとは、三河へと撤退していたのである。その途中を信長から責められたというのが『新解釈』での考え方だ。撤退中の部隊は弱い。#信長 #信長公記 #桶狭間

13 日本陸軍の出した『日本戦史 桶狭間役』に記載された「迂回奇襲説」は、歴史研究者の藤本正行氏が雑誌『歴史読本』1982年7月号で「異説・桶狭間合戦」を発表したことでだんだんと否定されるようになった。今から40年ほど前の話である。それが「正面攻撃説」である。#信長 #信長公記 #桶狭間

14 藤本氏は義元本陣が「谷間の低地とは限らない」と指摘し、史料的根拠として『信長公記』を用いて「織田軍は中島砦を出て東に進み、東向きに戦ったわけで、堂々たる正面攻撃ということになる」と主張し、現在は歴史学会でもこれがほぼ定説となっている。#信長 #信長公記 #桶狭間

15 正面攻撃説では、一次資料ではないが一次資料に準ずると評価される『信長公記』をふつうに読めば、迂回だの奇襲だのとは書かれていないことを指摘した。また桶狭間山と書かれていることから、本陣が山頂にあったとわかる。つまり日本陸軍説はまったく信頼に値しない。#信長 #信長公記 #桶狭間

16 日本陸軍説では信長は、善照寺砦から山中をはるか迂回して、義元本陣を目指す。しかし信長公記には明確に善照寺砦から中島砦へ移ったことが書かれている。山中の道なき道を進んで迂回するというのは、第二次大戦での日本軍の行軍を思い起こさせる。#信長 #信長公記 #桶狭間

17 正面攻撃説が主流になったのは、信長公記に書かれているから。信長公記は一次史料ではないが、やはり何より重要なのは間違いない。信長の家臣・太田牛一が書いた信長公記だが、永禄11年以降は毎年1巻、本編15巻で信長の伝記が書かれている。#信長 #信長公記 #桶狭間

18 しかしそれとは別に上洛以前の話がまとめられているのが、いわゆる15巻とは別の首巻と呼ばれるもの(『上洛以前の記』)で、桶狭間の戦いはここに詳細に記述されている。研究によって信頼性の高さは証明されているため、一次史料に準ずるとされる。#信長 #信長公記 #桶狭間

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